当初は多少手こずっていたこの地域の魔物も、今ではそこまで手をかけずに倒すことができるようになってきていた。
まだ油断はできないものの、試行の末たどり着いたパターンに持っていくことができれば、勝利は目前だ。
「兄貴!」
「ああ」
マッシュの呼びかけに、エドガーがわかっているとばかりに頷き、自分の身長ほどもある機械を準備し始めた。
三体の魔物の体力を、マッシュとセリス、そしてロックである程度削れば、あとはエドガーの機械で一網打尽にできる。マッシュたちは目を潰されないよう、目を瞑ったうえで、さらに腕や手で視界を覆った。
件の機械の光線が敵に向かって照射される音がする。サンビームという名のこの機械は、まさに故郷の日差しに負けないほどのまばゆさで敵を焼くだけでなく、その視界も一時的に奪う強力なものだった。
魔物の断末魔があたりに響き渡る。その後、戦場となっていた草原が静寂を取り戻したころに、マッシュはゆっくりと目を開けた。魔物の亡骸から解き放たれた魂が、まだ薄っすらと目視できた。
ふと、懐に入れている魔石がかすかに熱を持った気がした。マッシュはそれを取り出し、陽の光にかざしてみる。
ラムウからマッシュたちに委ねられたのは四つの魔石だった。そしてその中には、ラムウ自身も含まれている。
傷一つ付いていない透き通った緑の宝玉の中に、鮮やかな赤い核が埋めこまれている。その中をよく見れば、眠るようにして体を丸めている「生前」の幻獣の姿が収められていた。
自らが経験を積んでいけば、魔石の魔力と自らの能力とが共鳴し合い、彼らが使っていた魔法を受け継ぐことができるという。さらに、魔石に強く祈れば、幻獣の姿が具現化して力を貸してくれる。
しかしたとえそうであっても、彼ら自身はもう存在しないのだ。この魔石自体は、あくまで彼らが生きていた証に過ぎない。そのことにマッシュはまだあまり実感が持てないままでいた。
「マッシュ」
ふと、後ろから兄に呼びかけられて、マッシュは振り返った。いつの間にかあの大がかりな機械は片付けられていて、先ほどの戦闘などなかったかのように、エドガーはすっかり涼しい顔をしていた。
「お前、怪我してないか」
予想していなかった質問に瞳を瞬かせたが、マッシュは特段疑問を抱くことなく、右の上腕を見せながら答えた。切り傷からわずかに血がにじんでいる。
「今のとこ、これくらいかな。痛みもそんなにないし、軽く止血しとけばまだ回復の必要はないと思うけど」
同意の言葉が返ってくると思っていたが、予想に反し、エドガーは首を横に振った。
「かすり傷がいつ致命傷になるかもわからん、今のうちに対処しておくべきだ……少し腕を借りるよ」
言って、エドガーはマッシュの腕に軽く片手で触れる。そっと目を伏せると、もう片方の手で人差し指と中指を立てて精神統一を始める。それはまるで祈るようなしぐさだった。
「兄貴……?」
問いかけに対する直接の答えはない。代わりに、エドガーの口からは、マッシュには理解ができない言葉の羅列が低く紡がれていく。それは、セリスとティナが魔法を唱える時の雰囲気によく似ていた。
そこでマッシュは察する――エドガーは魔法を覚えたのだ。そして、この状況で用いられる魔法といえばひとつだ。
流れるような詠唱が終わった。その瞬間、エドガーの手が添えられていた患部が、暖かく淡い緑色の光に包まれる。その光は数秒もしないうちに、空気に溶けるようにして消えていった。
「お、すごい……」
軽い傷とはいえ、ちくちくと感じていた痛みがみるみるうちに引いていくのを感じ、マッシュは感嘆の声を漏らした。傷口も、完璧にとまではいかないが、止血の処置を施す必要がないくらいまでにはふさがっている。
「どうだ、マッシュ」
めずらしく、少し浮立ったような声だ。そこで勘づいたマッシュは、少し意地悪な気分で言ってみた。
「わかった、兄貴。俺を利用したな」
「利用?」
「覚えたての……しかも初めて覚えた魔法だ、早く試してみたかったんだろ」
「まあ、それもあるけどな」
あっさり認めた後、エドガーの瞳がおかしそうに細められる。少し幼さを残すいたずらっぽい光をちらつかせつつも、柔らかなまなざしがマッシュを正面からとらえた。
「……一番に見せたかったんだ、お前に」
秘密を打ち明けでもするような、低くどこか甘い声色、そして言葉の内容に、なぜかマッシュの全身が急にかっと熱くなった。
唐突な感情の動揺への戸惑いを認めてしまったら、さらなる動揺を引き起こして、収拾がつかなくなりそうだった。そこは努めてこらえて、マッシュは動じていない風を装いながら短く尋ねた。
「な、なんでさ」
「なんでってお前……あの『魔法』だぞ? 魔法が本当に使えるようになったんだよ」
抑えようとはしているらしいが、エドガーの声は少し弾んでいる。ロックとセリスもいる場だからか明言はされなかったものの、マッシュはエドガーの言いたいことがわかる気がした。昔、寝る前に一緒に読んだ本、あのおとぎ話の中だけのものと思っていた代物が、今こうして現実になっているのだ、と。
マッシュは幼い頃を回顧する。身体が弱くあまり外に出られなかった弟を思ってか、それとも単純に新鮮さや驚きを共有したかったからか、兄は、新しい知識を得たり父の外遊に同行した際にめずらしいものを見たら、真っ先にマッシュのところにやってきては、思う存分弟に語ったものだった。
こういうところは昔のままのようだ。実感して、マッシュの頬は思わず緩んでしまう。エドガーが――今は一国を預かる身であるエドガーが、なんであれ真っ先に考えたのが自分のことだった。その事実が、素直に嬉しかった。
ふいに、上機嫌な微笑みを浮かべていたエドガーが表情を引き締め、少し硬い声で言った。
「それに、回復魔法を習得したのは大きいと思うんだ。これでセリスの負担が少しでも減ることになればいいんだが」
そう言う横顔は、すっかり「マッシュの兄」ではなく、王の顔つきだ。そのことにマッシュは、歓喜から一転、突き落とされて、今度は子どもじみたと言ってもいいほどのあからさまな落胆を覚えた。
そこでふと、マッシュは気づく。近頃どうもやけに、エドガーの細かな表情や言葉ひとつひとつに翻弄されている気がしてならない。
果たして、昔からこうだったろうか。
マッシュは深呼吸をして冷静さを取り戻そうとしながら、記憶をたどりつつ考えてみる。今感じている、次から次へとさまざまな感情が湧いては消え、そしてまた湧いてくる感覚。兄に関して、ここまで心乱されることは過去にはなかったように思う。久々の再会の余韻で、まだ心が浮ついているのだろうか。
あるいは、とマッシュは他の可能性を懸命に追求してみる。昔とは異なり、エドガーとマッシュの関係性は、もう城の中だけで完結するものではなくなった。もしかすると、仲間たちとの新たな関係性が影響しているのか――
「おーい」
そこへ、ロックが手を振りながらこちらに向かってくるのが見えた。後ろにセリスも小走りでついて来ている。考えすぎで過熱寸前になっていたマッシュの思考は、幸いにもそこでいったん途切れた。
「見てたぜ、エドガー。お前何か魔法覚えたろ」
「ケアルをな。いや、覚えるまで長い道のりだった」
「そりゃちょうどいいや」とロックは笑みを見せる。
「じゃあさっそくなんだけどさ、ちょっとかけてくんね? 一応回復しときたくてさ」
「ああ、ちょっと待ってろ……」
エドガーが、先ほどマッシュにしたようにロックの左の前腕に手を添え、詠唱を始めた。その光景を目に入れたその一瞬、胸のあたりに、硬い砂を踏みしめた時のような、ざらりとした感触がする。マッシュにはその意味が理解できない。
詠唱が終わると、ロックの腕が先ほどのような淡い光で包まれる。エドガーはロックの腕から手を離した。
「……今ので終わり?」
「そうだが」
ロックは、傷がふさがってはいる左腕を軽く振りながら、小声で呟いた。
「なんか……セリスのケアルと比べるとしょっぱいな」
ああ、言っちゃったか――マッシュは内心苦笑した。
確かに、習得したてだからなのか、同じ魔法でも使い手によって向き不向きでもあるのか、先ほどエドガーがマッシュに施した魔法は、回復量としてはそこまで多くはなかった。いざ実戦で使うとなると、何かしらの工夫が必要かもしれないと漠然と感じていたところだった。
ロックの一言をしっかり聞いたらしいエドガーは、無表情かつ無言で腕を組み、ロックとマッシュに背を向けた。空色のマントが、初夏の心地の良い風に吹かれるようにひらりとはためいた後、マッシュたちの視線を遮断した。
「……あのさあ、もしかして俺、お前の兄貴怒らせちゃった?」
ごく小声でロックが聞いてくる。呆れたマッシュはため息をついて、若干の皮肉を込めて言ってみる。
「ロックは兄貴と付き合い長いんだろ。見てわかんない?」
「いや、あいつがあんなふうになるとこなんて見たことないからさ」
「へえ……?」
マッシュは首を傾げたが、エドガーとて子どもではない。機嫌を損ねたからといってそこで旅が中断するわけでもないはずだ。ただマッシュとしては、このままの雰囲気で進んでいくのもどうかと思われた。
どうやって兄の機嫌を戻したものか――考えを巡らせ始めたが、解決方法の糸口は、思いもよらぬところからもたらされた。
「あの、エドガー」
状況を静観していたセリスが、そっぽを向いたフィガロ王に向かって声をかけはじめた。
「その……魔法の効果の強弱というのは、潜在的に誰もが持っている能力に依存してる。もちろん生まれつきの差もあるだろうけど、その能力自体は、経験や訓練を積むことで伸ばしていくことができるの」
セリスは、無理に作ったような明るい声色で続けた。
「とにかく、まだ習得したばかりだしそもそも魔法に慣れていないんだから、このままってことはないはず。だから……」
彼女なりの精いっぱいのフォローなのだと、マッシュにもわかった。
そしてエドガーはマッシュ以上にそのことを理解しているに違いなかった。すぐにマントを翻して振り返り、言葉に迷って佇んでいるセリスに向かって、相好を崩した。
「ありがとう、セリス……よくわかったよ。もっと経験を積んでいかねばならないみたいだな」
柔らかな表情で穏やかに礼を告げた。と思えば、友人をぞんざいに顎で示す。
「いずれにせよこのバンダナ男は、当面は、私のケアルなんかよりポーションをひたすら浴びるほうがよっぽどいいみたいだねえ」
ロックはきまり悪そうに「そこまでは言ってねえだろ」と頭をかいた。
「ったく、いい大人がそんなにへそ曲げんなって……つうかせめてそこはハイポーションだろ」
「ぜいたくを言うな」
「足りなきゃ、敵さんの懐から拝借すればいいのさ」
こともなげに言い放ったロックの一言に、エドガーは芝居がかった動作で首を振った。
「無ければ盗む、か。お前のその思考、どうかと思うがね」
「おお? じゃあお前が今使ってる盾は一体誰が盗んでやったんだよ。あ、あとサウスフィガロの作戦が誰のおかげで成功したかも忘れんなよな」
エドガーは面倒くさそうに大きくため息をつき、ロックの畳みかけるような主張を一切無視した。
そしてセリスに向かって、だいぶ話が逸れてしまったと軽く咳払いをしてから、魔石を取り出して手のひらに乗せた。
「不思議なものだ……まさかこうして自分が魔法を使うことになるとは思わなかったよ」
エドガーの言葉は、内容としては、先ほどマッシュに向けられたものとおおむね同じだが、また異なる側面を持っていた。感慨に浸っているような、それでいてどこか苦々しいような、そんな複雑な響きが感じ取れた。
「……私もまさかこうなるとは、夢にも……」
続いたセリスの声は、めずらしく当惑が隠しきれていなかった。
ゾゾで目の当たりにしたティナの変貌、幻獣との邂逅と対話、そして突如託された魔石。この目で見たというのに、にわかに信じがたい一連のできごとを思い起こしているのだろうかとマッシュは想像した。自分が今まさにそうだったからだ。
セリスの複雑な表情を目に留めて、今日の晴天をそのまま写しとったようなエドガーの瞳が穏やかに細められた。
「セリス。とにかく今は私たちがすべきこと、できることをやろう」
兄のことだ、彼女の中にあるであろう葛藤や混乱を和らげようとしているのだろう。
そう認識した瞬間、マッシュの胸中に、またあの硬い砂のようなざらつきがよみがえった。しかも、今度は先ほどよりも強く。
また、感情が乱されている自分がいることに気づく。マッシュはかすかに俯き深く呼吸をしようと努めた。
「マッシュ、どうかした?」
エドガーに無視を決め込まれてつまらなそうにしていたロックが、怪訝そうに覗き込んでくる。マッシュは笑顔を作ってから、さりげなく顔を背けてその視線を避けた。
「ううん、なんでもない。大丈夫だ」
――どうしても、納得がいかないのだ。
まだ未熟かもしれないが、自分は僧だ。めったなことでは心が千々に乱れることのないように修行を積んできたつもりだった。
だというのに、一体このありさまはなんだろうか。
よりによって実の兄に対してだけこうも心が波立つ。久々に再会した、大事なただ一人の肉親だから。そんな理由で説明ができる範疇を超えている気がしてならなかった。
渦を巻くように混乱していく思考の中で、マッシュは自分なりに答えを見つけようともがく。
例えば――そう、いつからかはわからないが、兄はとっくにある種の「魔法」を使えるようになっていて、そしてマッシュは、いつの間にかその「魔法」にかかってしまっていたのかもしれない。
なんて馬鹿げた、そして八つ当たりめいた考えだろうと自嘲した。それでも、そんな突飛な理由でもなければ、説明などつきそうにないと思ったのだ。
突如マッシュを揺さぶるようになった、この感情の波の正体も、随所で感じたざらつきの正体も、そしてそれらが起こる理由も。