1
最初に覚めたのは、最後に死んだはずの聴覚だった。
歩く音、駆ける音、話す声、歌う声。そして、なにやら聴いたことのないような雑音。一気に耳に流れ込み、アーロンの意識を混乱させる。最後に倒れたのは、静謐なマカラーニャの森だったはずだ。
音に揺り起こされるように、少しずつ目を開ける。視覚も生き返っていた。
投げ出された両脚が視界に入り、遅れてよみがえった触覚と照らし合わせて、ようやくそれらが自分の脚と認識した。そうしてはじめて、今自分が何か壁にもたれて座っているような姿勢であることを知った。
脚から、視線を徐々に上げていく。
建物の影、突き当たりの地点にでもいるのだろうか。今アーロンがいる場所自体は薄暗いが、まっすぐ進んだ細い道の先には、光が忙しくきらめいているのが見てとれた。マカラーニャの森にあふれているものとは明らかに性質が異なっていた。
視線はそのまま、真上に向く。
「!」
と、アーロンは思わず息を詰めた。
途方もない高さまで、曲線的で独特な作りの建造物で埋まっている。岩壁のように連なってそびえ立つそれらは、まるでその空間一体にふたをしているかのようだった。明かりが灯されているにも関わらず、アーロンに圧迫感を与える。
その切れ目から、少しだけ顔を出している空間。それが太陽や月が昇る「空」なのかすらもよくわからない。もしそうなのであれば、アーロンはこのような空の色は見たことがなかった。
自分は死んだ、のだと思う。しかしここは、グアドサラムで訪れた異界とはあまりに雰囲気が異なっていた。
そこで、何かがひっかかった。上空を埋め尽くしているあの特徴的な建物を見たことがあるような気がしたからだ。
もっとも、アーロンに見覚えがあるのは、すでに廃墟となった姿だった。今目の当たりにしている、生命が息づいているかのごとく明かりが灯っている姿ではない。
「……ザナルカンド」
その目で見た遺跡の名を、無意識にアーロンは口にしていた。
立ち上がること一つとっても、アーロンは、体の動かし方を思い出さなければならなかった。
この体が借り物のような、うまく馴染まない感じがする。妙な感覚に戸惑いながらも、傍らに積まれていた木箱を支えにして立ち上がった。
自分の存在も、この場所も、何一つアーロンの知識と経験では説明できそうになかった。
しかし、であればこそ、袋小路に座りこんでいても始まらない。細い道の先、光の漏れだす方へゆっくり歩みを進めていると、
「ねえ」
急に後ろから呼び止められ、心臓が跳ねたような気がした。勢いよく振り返ると、先ほどまでアーロンが座り込んでいた場所に、華奢な少年が一人たたずんでいた。
年は八つか、九つほどだろうか。濃い色のフードを目深にかぶっており、表情といえば、ほんのわずかに笑んでいる口元からのみうかがい知ることができる。
虚を突かれ言葉を発することのできないアーロンを見上げながら、少年は語りかける。
「夢になった現実、キミのことだね」
「……君は……?」
少年の言葉の意味が理解できないアーロンは、やっとそれだけを絞り出す。
「キミたちの旅をずっと見てた。召喚士が喚ぶ夢を通じて」
召喚士が喚ぶ召喚獣は、召喚士の精神と祈り子の見る夢が結びついて具現化したものだ。そのため召喚獣には、祈り子の意識が宿っていると言われている。
アーロンは、あ、と小さく声を上げた。
「祈り子様?」
少年は、口元の笑みを深めた。
召喚士のみが交感できるはずの祈り子と、本来こうして会話はできないはずだった。他にもわからないことは山ほどある。しかし、まずはもっとも知りたいことをアーロンは尋ねた。
「ここは、ザナルカンドなのですか?」
フードをかぶった頭が、静かにうなずいた。
――本当にあったんだ、あんたのザナルカンドが。
今立っているのが、その場所なのだ。それなのに現実味を欠くのは、今アーロンが心の中で語りかけた相手が隣にいないからだろうか。
「エボン=ジュの夢が召喚された姿が、このザナルカンド」
祈り子は語るような口調で続ける。
「キミの仲間は夢から生まれて現実になった。そしてキミは……現実でありながら夢になった」
本来ならば、スピラで現実を生きていた存在が、現実と夢の境界を越えるのはあり得ないことだ。しかしそれを唯一可能にするのが『シン』なのだと祈り子は言う。そこまではアーロンの推測に沿っていた。
わからないのは、自分がなぜ『シン』に運ばれることができたかということだ。
「しかし、俺は死んで……」
「そう、キミは死んだ。でもよみがえった、死人(しびと)として」
それは、死ぬ間際の強い思いにより、幻光体となってなお現世にとどまる存在のことを指す言葉だった。
アーロンはその概念について聞いたことはあったが、その存否も含め、詳しいことは知らなかった。
今、アーロンには五感が備わっている。違和感はあるものの、生きていたころとほとんど変わらず体を動かすことができる。だとしても、それは凝縮された幻光虫の力によるものであり、もうこの体は生身の人間のものではないのだ。
「『シン』に乗っても、生きた人間は夢の中には渡れない。キミがここに存在するのは、体を失ったから」
ユウナレスカに返り討ちにされたことで、結果こうしてザナルカンドにいるということになる。何がどう転ぶかわからないものだ、とアーロンは他人事のように感心した。
もはや自分の生き死には、アーロンにはどうでもよくなっていた。約束を果たすことができる、重要なのはそれだけだった。
アーロンの考えを読んだかのように祈り子は言う。
「会うんでしょう? あの子に」
答えを待たずに、小柄な体はアーロンの横をすり抜けて光のあふれる方へと歩んでいく。途中、立ち止まって振り向き、手招きをした。
「こっち」
微笑ましいしぐさに、相手が祈り子であることを一瞬忘れる。思わず口元をほころばせながら、アーロンは彼の背中を追いかけた。
洪水のように流れ込む音と光、そして人混み。頭痛のような感覚に見舞われながら、通りを歩く。
ひときわ巨大な建物の側面には、スフィアモニターを大きくしたような機械が取りつけられており、目まぐるしく映像を流し続けていた。
周辺に所狭しとあふれる看板や装飾は、競い合ってまぶしい色を放っている。
猫のように人混みをすり抜けていく祈り子を見失わないよう、かつ通行人にぶつからないよう歩いていくのは簡単ではなかった。
もっとも、多少肩がぶつかったりする程度では、相手はこちらを見ることすらせず、無関心な表情で通りすぎるだけだった。
人の多さと、絶えず刺激される視覚と聴覚に、アーロンは息苦しさを感じて大きく息を吸う。
と、ごみごみとした街に似つかわしくない、さわやかな香りが鼻をくすぐった。近くに海があるようだ。
人混みに気を取られていて気付かなかったが、よく目を凝らしてみると、暗い空間に船らしきものが数隻浮いていた。潮の香りはスピラでもザナルカンドでも変わらないことに、アーロンはわずかながら安心感を覚える。
するすると進んでいた祈り子はやがて、頑丈そうな橋の前で足を止めた。
「あの家がそうだよ」
彼が示す先にあるものは、一見すると船にしか見えない。しかし、「船の家」という、アーロンが聞いたことのあるザナルカンドの話と一致はしているようだった。
ドアの前に、一人の少年がたたずんでいた。
手に持ったブリッツボールを投げ上げ、足で一回、二回とドリブルしたところでボールはあらぬ方向に弾み、あわててそれを追いかける。少年はそれを何回か繰り返している。
この年頃の子どもにしては低い背丈、柔らかそうな栗色の髪の毛。こちらもまた、いつか聞いた話と一致していた。
アーロンは、祈り子に頭を下げて案内の礼を言った。そして緊張しながら少年の元へと向かう。なおも熱心にボールを蹴り上げる少年は、アーロンに気が付いていないようだ。
しかし、しばらくしないうちにまたボールがこぼれて、今度はこちらに転がってきた。ブーツのつま先にぶつかって止まったそれを、アーロンは拾い上げる。
ボールを追いかけてきた少年は、アーロンを見上げて、一瞬おびえたような表情を見せた。そこで初めてアーロンは、自身の片目に走る傷跡のことを思い出す。
それでも少年はアーロンからボールを受け取ると、伏し目がちに、しかし律儀に礼を述べた。
「あ、ありがとう」
名前は何と言ったのだったか。アーロンは、応える代わりに問いかけた。
「……ティーダ、か?」
少年の表情が固まり、すぐにおびえが戻る。突然、傷跡のある見知らぬ男に名前を呼ばれては、そうならない方が難しいと思えた。
自分のこと、そして約束のことをどう説明すればよいのかとアーロンは迷う。どのように説明してもわかってもらえそうにない気がした。まずはせめて、アーロン自身を信用してもらわなければならないだろう。
「突然、すまない」
アーロンはしゃがみこんでティーダと視線を合わせると、自分の考えうる限り優しい声色で話しかけた。
「俺はアーロンといって……」
自分とあの男の間柄を簡潔に表すとすれば、友人、ということになるのだろうか。そう考えながら、アーロンはその通りの言葉を口に出そうとした。
「君の、父親の――」
「――!」
その瞬間、ティーダの表情が歪んだ。おびえではなく、強い怒りによるもののように見えた。予想していなかった反応に、アーロンは一瞬ひるんで言葉に詰まる。
その隙を見て、ティーダは何も言わないままボールを胸の前に固く抱え、即座にアーロンに背を向けて走り去る。
船の家のドアが乱暴に開けられたと思ったら、すぐに耳ざわりな音を立てて閉まった。それから少しも経たないうちに鍵がかけられたような音がした。大した音ではなかったはずだが、アーロンの耳にはやけに大きく響いた。
他人にここまで強い拒絶を示されたことは、生涯に一度もなかったかもしれない。
靴に鉛でも入れられたかのように、アーロンはしばらくその場を動けなかった。
2
薄暗い中に無数の幻光虫が舞っている。天井の高いホールを満たす、重くよどんだ空気。この時のことは、忘れたくても忘れられない。
『……キライじゃなかったぜ』
褐色の肌が近づいてきて、肩と背中に腕が勢いよく巻きついた直後、引き寄せられた。アーロンは顔を上げることができずに目を閉じる。死んでも約束を守ると誓った、今しがたの威勢のよさはどこかに消えていた。
むき出しの左肩と、男の腕が触れる。それだけでも、体温が十分すぎるほどに伝わった。故郷のチームメイトともこうして抱き合い勝利を分かち合っていたのだろうか、と場違いなことを考えたのは、まぎれもない逃避だった。
この男が、「祈り子になる」という極めて重大な決断をしたのはつい先ほどのことだ。にもかかわらずその声に過度な重さや硬さはなく、達観したように穏やかだった。
アーロンには、目の前の男がなぜそこまで穏やかでいられるのかがわからなかった。
『じゃあな』
同じ、穏やかな声でそっけなく別れが告げられる。
しかし、気のせいだろうか。
簡潔な言葉とは裏腹に、アーロンを包みこむ腕に一瞬力がこもったように感じた。まるで、離れることをためらうかのように。わずかな面積で共有された体温を逃したくないと惜しむように。
それがアーロンの思い込みだったのかどうか、もう確かめるすべは無い。
――死人(しびと)も夢を見るらしい。
夢のザナルカンド、安宿のベッドの上。そこで目を覚ましたアーロンが最初に思ったことだった。
アーロンがさっきまで見ていたのは、厳密には、人間が寝る時に見る「夢」と同じではないのだろう。人の記憶や思いを映し出す幻光虫の作用によるものだと思われた。
しかしあまり考えを深めすぎると、今の自分の存在を根底から揺るがしてしまいそうで、アーロンは努めてそれ以上は考えないようにした。
外は、もう明るくなりはじめているようだった。カーテンの隙間から朝日が差し込んできている。ザナルカンドにも自然光と呼べるものが存在するのだ、とアーロンはまたひとつこの世界について知る。
寝返りをうつと、壁に立てかけてある太刀と、もう一本、比較的細身の剣が目に入った。
死んだときに持っていた持ち物の一部が、アーロンと一緒にザナルカンドに渡ってきていた。そのうち武器は、今壁に立てかけられている二本のみだった。細身の剣は、れっきとした武器なのだが、アーロンの太刀と並べてしまうとちゃちなものに見える。
確かこの剣は、息子へのみやげにとあの男が買ったものだったはずだ。それがこうしてここにあるのは狙いすましたような偶然だが、幸運ではあった。しかし果たして渡せる日は来るのかと、アーロンは昨日のティーダの表情を苦く思い出す。
武器のほかには、道具がいくつかと、所持金も一緒にこの世界に渡ってくることができた。
幸いザナルカンドでもギルによって経済が成り立っている。当面は今の手持ちで足りる見込みだった。ただその金もいつかは尽きる。それに、いつまでも宿暮らしを続けるのでは気も休まらない。
アーロンは再度、粗末なベッドの上で寝返りをうった。
そのさらに翌日のことだ。
「……仕事?」
アーロンの言葉を戸惑ったように繰り返して、祈り子が首を傾げた。
祈り子は彼なりにアーロンを心配しているらしい。朝、アーロンが街を歩いていたところ、ふらりと姿を現してようすを尋ねてきたのだった。
そんな彼に、何か仕事をしたいのだという話をしても、あまり理解できなかったようだ。彼にとってこのザナルカンドは、ときおり遊びに来ては楽しく過ごす場所であり、生活の場所ではない。無理もないことだろうと思いつつ、アーロンはうなずく。
「生活するうえで、何かと入り用になるので……」
とはいえ今のアーロンも、厳密には「生活する」ということを考える必要のない存在だ。その気になれば、わざわざ生前と同じような暮らしをしなくても「生きて」いくことはできるようだった。
しかし、例えまねごとに過ぎないのだとしても、あえて今までどおりに生活をする。そうして、これは生きた体なのだ、と自分自身をあざむく。
今アーロンの体を構成するのは、高密度の幻光虫だ。それらを固くつなぎ止めておけるほどの精神を保つには、それが有効であるようだった。試しに昨日一日飲まず、食わず、眠らずで過ごしてみたアーロンは、その身をもって実感していた。
それに、何かをしていないと一日はあまりにも長い。気が触れてしまわないよう、自分を忙しくさせておきたかった。
祈り子はしばらく首を傾げたままだったが、やがて何か思いついたように口を開いた。
「まずは、あそこに行ってみたら」
細い指が差す先には、巨大なスタジアムの屋根が見えている。
人が集まるところに情報も集まるという理屈のようだった。アーロンは素直にそれに従って、彼が示した方向へと大通りを歩く。
そしてたどり着いてみると、確かに、試合が無い日中でもそこは人々の集う場所であるということがわかった。
各所に飾られたトロフィーを眺めている子どもたち、この地区を本拠地とするザナルカンド・エイブスの選手が実際に着たというユニフォームの前で盛り上がる若者たち。
ひときわ賑わっている場所にさりげなく目をやって、アーロンは小さく息をつく。予想通り、そこには行方不明になったスーパースターのユニフォームが展示されていた。
たった数日過ごしただけでも、ここザナルカンドにおける彼のあまりに大きな存在感はすぐにわかった。
街に出れば、必ず誰かが彼の話をしている。情報番組を流すスフィアモニターのようなもの――「テレビ」というらしい――では、褐色の体躯が縦横無尽にプールを泳ぎ回るさまがしばしば流れている。
それ以外にも、看板、ポスター、雑誌の表紙。この街にいる限り、あの紅い目から逃れるのは難しかった。
『だから言ったろ? スターなんだって、俺様は』
呆れたように、しかし自慢げに言う声を容易に想像できる。胸の痛みを持て余しながら、アーロンはその場を後にした。
(中略)
『気になってたんだけどよ、おめえ願掛けでもしてんの?』
一瞬、息が止まった。すぐに後ろを振り返るが、そこに声の主はいない。
『触るな』
どこからか自分の声が響いた。そこではじめて、まるで白昼夢を見るように、自身の記憶が再生されているのだとアーロンは気づいた。
確かに、見えている光景と会話の内容には覚えがあった。旅の途中、三人でミヘン街道を歩いていた時、急に後ろから髪を軽く引かれたのだ。それをきっかけにアーロンの髪の話題になったと記憶している。
その時アーロンの目に映っていた光景が、今眼前で再生されていた。死人(しびと)になってからというもの、「起きて」いる間、つまり意識のある間にこうして記憶を見ることは初めてだった。
『願掛けだったとしたら、そうだ、なんて言うわけにはいかないんじゃないか』
アーロンの隣を歩いていた召喚士が、笑いながら諭す。先ほどアーロンの髪に触れていたもう一人のガードは、それに納得したようだった。アーロンの背後から声が飛んでくる。
『んあ? まあそういうモンか』
それから、少しきまりが悪そうな声で続ける。
『なんつうか……ワケがあんのかと思って。野郎でここまで伸ばしてんのもそうそう見ねえからよ』
召喚士はその言葉に平然とうなずく。
『うん、そうだろう。自慢の髪でね』
『なんでおめえがえばるんだよ、ブラスカ』
「――っ……!」
自分の体を構成する幻光虫が、なぜ、よりによって今、このような記憶を見せるのか解せなかった。