Yearn to Return

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「俺、そろそろ部屋戻るな。もう眠気が、限界で……」

 あくびをしながら立ち上がるマッシュを見上げて、エドガーは現在の時刻を予想する。壁にかかっている時計で答え合わせをするとおおむね合っていた。弟の体内時計の正確さに、エドガーは小さく笑った。

 この旅路においてもマッシュの生活は規則正しいものだった。リズムはしっかりと体に刻まれているようで、一定の時間になると睡魔が襲ってくるのだという。そのため、マッシュが酒の席で最後まで残っていることはあまりない。

「ああ、おやすみ。マッシュ」

「ん、おやすみ……あまり遅くなるなよ、二人とも」

 エドガーに対してまた一つ大きなあくびで応えながら、マッシュは二人に背を向けた。

「まだいけるのかい、兄貴は」

 マッシュの背中が階段へと消えるのを見届けて、セッツァーは酒瓶を手に取る。エドガーは自分のグラスを差し出した。

「きみの兄になった覚えはないんだが」

 エドガーの返答を無視して酒を注ぎつつ、それにしても、とセッツァーは続ける。

「王位をイカサマありのコイントスで決めるなんざ、前代未聞だろ」

 そう言う口元は、楽しそうに笑っている。もし他の者に同様に話の種にされていたら、あまり愉快ではなかっただろう。しかし不思議と、目の前の男相手だと不快感はなかった。

「きみはその話がよっぽど好きなんだねえ」

「世間様と本人的にどうなのかは知らんが、俺にとっては面白いからな」

 気づかいも何もない正直な言葉に、いっそ清々しいとエドガーは思わず笑った。

 あの夜行われた「賭け」は、細工なしではかえって成立しなかった。エドガーの目的が果たされない可能性があったからだ。

 当時の自分たちにとってはあの方法が最善だった。そうエドガーは考えるが、そもそもあのような「賭け」をしないという選択肢もあるにはあった。

「……もし王位を継いでいなかったらどうなっていたかと、たまに想像する時がある」

 グラスの中の琥珀色に視線を落としながら、エドガーは呟く。

「お前じゃなくてマッシュが王になってたらってことか?」

「いや、マッシュと一緒に国を出ていたら」

 視線を上げると、セッツァーがわずかに眉を寄せてこちらを見ていた。まっすぐ見返して、エドガーは続ける。

「国を出て、二人でどこか遠いところ……誰も俺たちを知らないようなところに渡って、そこで暮らしたらどうなっていたか、と」

 あの夜マッシュは、「この国を出よう」と泣きながら手を差し伸べてきた。その言葉の通りにすべて裏切って、地位も家名も捨てて、自由を手にする。そして相手だけが唯一、自分の存在と過去を保証する。そんな二人での人生に一瞬でも心が揺らがなかったと言えば、嘘になる。

 揃いの髪と瞳は母国の象徴であり、愛する親の血を継いでいることの証明でもあった。

 互いの姿を目に入れるたびに幾重もの罪悪感に苛まれながらも、その内に潜むささやかな幸福を手放すこともできない。もしあの時マッシュの手を取っていたらそうなっていたのかもしれないと、エドガーはこれまでに何度も想像した。そしてそのことを思えば、国を放棄しなかった現状が自分たちにとって「正しい」道であるのだと、自身を正当化できるような気がした。

 一方で、こうも考える。結局のところそれは、弟と愛し合い求め合うという過ちを犯している今の状況と、何か大きな違いはあるのだろうか。

 むしろ、「正しい」道を選んでいるという事実が、かえって、犯した過ちの深刻さを際立たせているのではないか。

 そこでいつも耐えられず、エドガーの思考は止まる。しかしふとしたきっかけで振り出しに戻っては、また同じ場所を回り続けるのだ。

 いったん言葉を切ったエドガーをなおも見ながら、セッツァーが静かに口を開いた。

「ずっと引っかかってるんだが、お前ら――」

 核心に迫ることを望む声色だった。エドガーの手のひらはわずかに汗ばむ。

 しかし、続く言葉を探すような数秒の間の後に、セッツァーはエドガーから視線をそらし、グラスで口元を隠した。

「……いや、やっぱりいい。面倒ごとに巻き込まれそうだ」

 張りつめていたような空気が一気に緩んだ気がした。知らず知らずのうちに詰めていた息を吐きながら、エドガーは頬を持ち上げて軽口をたたく。

「おや、きみはやっかいごとに首突っ込むのが好きなんだと思ってたが」

「面白けりゃいいけどな。そうじゃないなら願い下げだぜ」

「わかりやすくていいね……そういうわかりやすさに俺は憧れるよ」

「馬鹿にしてんのか?」

 軽く睨みつけられて、エドガーは否定するためにゆっくりと首を横に振った。

「自分の心のままに生きたいと思うこともある、という話だ」

 ――やはり先ほどマッシュと一緒に部屋に戻っていればよかっただろうか。

 急に目の奥がじんわりと痛みだして、エドガーは少し後悔した。無性に、あのあたたかな腕の中に帰りたくなった。

 

 それきり黙り込んだエドガーに対し、セッツァーはごく短く応じるに留めた。

「難儀だな」

「もう慣れた」

「そうかい」

 言いながら、セッツァーはまだあまり中身の減っていないエドガーのグラスを奪う。そして酒瓶に残っていた中身をすべてそこに空けてしまうと、おざなりにエドガーの前に置いた。

「こんなにいらないんだけど……」

 なみなみと注がれた酒を前に苦笑する。セッツァーは空の瓶を脇に押しやってから、タバコを取り出し火をつけた。

「飲みたいっつったのはお前だろ」

「ああそうだね、どうもありがとう」

 心のこもらない礼の後にため息をついてから、こぼれないよう慎重に口元に運んで飲み下す。あまり味はわからず、また酔いで痛みをごまかすには強さが足りないように思えた。

 酒を持て余しながらエドガーは、その場に漂い始めた紫煙を眺める。そして、次はタバコを一本分けてもらおうか、そんなことを思った自分を嗤った。