このお話は、Twitterで活動されている@9_kbut さまのイラスト(以下リンク先の4枚目)をモチーフに書かせていただいたものです。まずはぜひ、こちらをご覧くださいませ…!
※小説を書かせていただくことおよび、書いたものの当サイトへのアップについてお許しをいただき、掲載しております
発端は、エドガーの晩酌に付き合っていた時のたわいない会話だった。
「この間、お前の師匠に会ったんだ」
「えっ?」
そういえば、と切り出したエドガーの言葉は寝耳に水だった。マッシュは思わず大声をあげて隣に座るエドガーを見た。
「サウスフィガロに視察に行った時にな。たまたまその時期が、年に数回帰る時期と重なってたとかで」
広々としたソファの背もたれに身を預け、ワイングラスを軽く揺らしているエドガーは、口元をほころばせながら続ける。
「今まで直接じっくり話すこともなかったし、いい機会だったから色々と話を聞かせてもらったよ……色々な」
「何を聞いたんだよ、いったい」
マッシュは思わず苦い顔になる。それは、今夜は自分しか飲まないからと油断して濃く淹れてしまった紅茶の、渋みが舌に残ったことばかりが原因ではなかった。
エドガーが、ちらと視線を寄越してきた。マッシュは渋面のまま応じる。兄は「何だその顔は」と声を立てて笑った。
「まあ主に昔のことだな。お前がどんな修行をしていたか、とか」
肉体を鍛えぬこうと思えば、精神の作用を切り離して考えることはできない。よって武の道を歩む者は多くの場合、肉体の錬磨と並び精神の修行も怠ることはない。マッシュが受けたモンク僧としての修行は、とりわけ精神鍛錬に重きを置いていた。
『何事からも目を背けるな』――それはマッシュが修行を通じて師から受けた教えの一つで、最も印象に残っているものだった。
「何事」の中には己の心も含まれている。自分が感じたことから目を逸らしてはならず、まずはそのままの形で受け入れることが肝要なのだという。そしてマッシュは、今日までそれを実践するよう努めてきたのだった。
師匠の求道者ゆえの厳格さに折れそうになったことは何度もあった。忘れようにも忘れられないコルツ山での日々が思い出されて、マッシュは苦笑いを浮かべた。
「おっしょうさまはあれで結構厳しいんだぜ? おかげでこうして心身鍛えられたわけだけど」
「修行のたまものだな。こんなでっかくなりやがって」
面白くなさそうに短く鼻を鳴らすエドガーに、マッシュは肩をすくめる。何か言い返してやろうと口を開きかけたが、エドガーが続けて呟くほうが早かった。
「見違えたよ……本当に」
低い呟きをこぼす横顔は穏やかだったが、ほんの少し憂いを帯びているようにも見えた。物思いにふけるように遠くを見つめていた瞳が軽く伏せられる。まつげが頬に影を落とした。
それを認めた瞬間、突然、寒気にも似た興奮がマッシュの首の後ろをざわりと走った。
会話はそこでそのまま途切れた。続けようと思えばできたはずだ。しかしマッシュはあえてそうせずに沈黙を選んだ。
マッシュは、膝下の位置にあるローテーブルから何でもないふうを装ってティーカップを手に取った。冷えて渋みばかりが残された紅茶を、わざと時間をかけて口に運んだ。
エドガーも黙りこくってグラスを傾けている。おそらく自分と同じことを考えているのだろう。目視できるような根拠はないが、マッシュは推測した。
こうした瞬間は、二人の間に何の前触れもなく訪れる。何が引き金になるかもその時々で異なる。嫌なものではないが、じりじりと互いの出方を待つ、どこか据わりの悪い沈黙だ。それはごく弱い火で熱するように互いの高揚を煽っていくことを、マッシュは経験上知っていた。
その状態が続いたのは数十秒ほどと思われたが、数十分ほどにも感じられた。
先に音を上げたのはマッシュの方だった。いよいよ辛抱ができなくなって、手に持っていたカップをテーブルに戻した。カップとソーサーがぶつかって神経質な音を立てる。その音に、エドガーの肩がわずかに跳ねたようだった。
「兄貴」
呼びかけた声はかすれていて、気分の高ぶりを如実に伝える。先ほどから心臓がひどくうるさく鳴っていた。
エドガーがマッシュの方にゆっくりと顔を向けた。しかし目は軽く伏せられたままでマッシュを直視しない。
「兄貴」
まなざしが向けられないことに焦れて、もう一度呼んだ。
兄はひとつ瞬きをした後に、緩慢な動作でまぶたを上げた。深海のような静かな青の奥にランプのちらつく炎をはらむ双眸が、見つめてくる。それだけでマッシュは、すべてが自分にとって都合のいい夢想の世界にいるような陶酔に飲まれる。
一方で、それは痛いほどの渇望を呼び覚ます。
駆ける鼓動に背中を押され、マッシュはエドガーの唇に自らのそれで触れた。はじめは何度か軽くたわむれるようについばむ。マッシュを受け止める口唇の柔らかさは何度も味わっている。それなのに、今初めて知ったかのような感嘆の吐息が漏れた。
じきに、食み合いはたわむれの領域をやすやすと跳び越えていく。甘えるように下唇を舐めていた舌は今や本性を現して、エドガーの口内を隅々まで蹂躙していた。ふだん皆の前ではその息遣いさえコントロールする兄の、かすかに鼻にかかった声は、マッシュの体の芯から熱を沸き立たせる。
現実味のない時間だった。しかし夢想を疑いたくなるこの瞬間にマッシュが感じている、切実な温度が、感触が、これが現実に起こっていることなのだと教える。
そのことを実感するにつれ、ある情動が胸を衝く。
そしてただひとつの思いに駆られる。言わなければ、と。
渦の中に引きずり込まれるような誘惑をどうにか断ち切り、マッシュは唇を離した。依然として至近距離で、しかし言葉を明瞭に伝えられるほどの間合いは空けて、熱ににじむエドガーの目を覗き込んだ。
とたんに緊張が全身を襲う。マッシュは思わず自分の唇を舐めた。口を開いて、声を発しようとした。しかし、今発せられようとした言葉を封じるかのごとく、エドガーが噛みつくように唇を塞いできた。
そのままエドガーは、ひたりと胸が合わさるくらいに身を寄せてくる。マッシュはバランスを崩し、ソファの上で無理に押し倒された格好となった。その拍子にひじ掛けにぶつけた後頭部が鈍く痛んだ。
不安定な体勢のままエドガーは覆いかぶさってくる。再度唇が塞がれ、甘い舌が侵入してきた。マッシュはそれを甘んじて迎え入れながらも、自らも相手の口内に滑り込み、柔い部分を犯した。エドガーが眉根を寄せ体を震わせる。やり場のない熱を逃がすような息が漏れた。
混ざりあう唾液は薬物のような作用をマッシュにもたらす。後頭部の痛みを忘れさせ、そして正気を奪うほどの興奮を与えた。しかしそれでもなお、マッシュの中に残る一片の理性が、完全な没頭をかろうじて阻止していた。
この関係に至ったきっかけはなんだったか。ただの好奇心、あるいは十年離れていた間にうずたかく積み上がったものの屈折した形だったろうか。それはいつしか、マッシュの中に、兄に対するひとつの感情を植えつけた。日を追うごとに育っていき、消え失せることを知らない。
いずれにしても、今となってはきっかけが何であろうと同じことだった。自分がその感情を確かに抱いている――抱いてしまった、という事実こそがマッシュにとっては重要だった。
だから、向き合わねば、言わなければならない。
「兄貴……」
息継ぎの合間にマッシュは無理やりエドガーから逃れ、嘆息した。たとえこの甘い夢を醒ますことになるのだとしても、自らの心に根を張るものから目を逸らすことはできなかった。
「なあ、もう、わかってるだろ」
マッシュの顔を追いかけようとしていたエドガーの動きが止まる。
「言わせてよ」
目を見つめてマッシュは懇願した。
見つめ返してくる瞳には、凪いだ海のように波ひとつ立たない。エドガーはしばらく無言だったが、やがて口を開く。
「マッシュ」
聞き分けのない子どもをなだめるような声だった。兄の手のひらが頬に添えられる。冷たい親指の腹が、マッシュの下唇を優しくなぞった。
それからエドガーはかすかに眉を寄せ、口元に淡い笑みを刷いた。
「おれはあと何回お前の口を塞げばいい?」
その微笑をよく知っているマッシュは、息を呑んだ。
兄は困った時、決まってこんなふうに笑う。十余年前に父王が亡くなった後、この国を出ようと持ちかけた時。そして、この関係が始まってから。
強い感情を乗せない笑みだ。だからこそマッシュは、その裏にエドガーが秘めているものにじかに肌を接するような気になる。
今己が抱く感情に向き合うことは、自分たちが犯している過ちを認めることだ。過ちを認めればそれを背負っていかねばならなくなる。一方で、言葉にしなければ、抱いた思いに見て見ぬ振りをすれば、一時の気の迷いだとしてまだ引き返す余地がある。それがおそらくエドガーの論理なのだと、マッシュはこの頃わかってきたところだった。
そしてこれらはすべて弟である自分を慮ってのことだ。そのことがわかるから、これ以上何も言えなくなる。マッシュが師の教えに基づいた信念を持つのと同様に、エドガーにも自身の信ずるところがある。そしてそれらは交わらないのだ。
マッシュは小さく息をついて、片手をエドガーの後頭部に伸ばし引き寄せた。ぶつかった唇を舌で割り口内に押し入る。溶けそうに熱い舌が応じた。
もう一方の手をエドガーの背中に回して胸どうしを触れ合わせると、衣服越しに体温と鼓動が伝わる。全身が悦びに震えた。その傍らで心は渇いていた。
たったひとことの愛の言葉は、今夜もマッシュの胸の奥でくすぶり続ける。