口福論

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「前から思ってたんだけど……」

 夕食どきでざわつく食堂の中、マッシュは顔を上げて声の主である青年を見た。テーブルを挟んで向かいに掛けているロックは、頬杖をつきながら空いているほうの手で双子の手元を指し示した。

「逆なんだよなあ、お前ら兄弟」

 指摘されたマッシュは隣に座っている兄を見る。エドガーも食事の手を止め、いぶかしげにロックのほうを見ていた。魚のマリネと野菜をたっぷり挟んだバゲットを両手で持って、今まさにかぶりつこうとしているところだった。港町でしか味わえないサンドイッチは、この食堂の看板娘――注文を取る父親の後にくっついて歩いては客に愛想を振りまいている、五つくらいの女の子――が特に薦めていたメニューだ。

 次いで自分の手元に焦点を戻す。右手にナイフ、左手にフォーク。一口大に切り分けていたのは香ばしくソテーされた厚切り肉だ。厚みも面積もある肉の塊にそのまま噛みつくわけにもいかない。

 そうして自分と兄とを見比べてみたが、それでもなおロックが何を言わんとしているのか要領を得なかった。

「逆って、何がさ?」

 ロックの隣席でスープを口に運んでいたリルムが、マッシュたちの代わりに疑問を投げかけた。

「食べ方だよ。ナイフとフォークでお上品に……ってのはエドガーで、かぶりつくのはマッシュ。そんな感じしないか?」

「それはあくまでお前の印象だろう」

 具がこぼれ落ちるのを危惧してか、エドガーはいったんサンドイッチを皿に置いた。

 それから、そもそも料理が違うのだから食べ方は違って当然だとか、先入観にとらわれるのは感心しないだとかの理詰めが続き、また始まったとマッシュは苦笑を禁じ得なかった。この年の近い友人相手だと、兄はなかなかどうして容赦がない。当のロックは天井を仰いでエドガーの視線をかわし、はいはいと適当な相槌を打っていた。

「それちょっとわかるかも。色男のほうがマナーとかそういうのうるさいと思ってたもん」

 スプーンを置いて、リルムが頷いた。片肘をテーブルについているのはロックの真似だろうか。この場にストラゴスがいたら、行儀が悪い云々と祖父と孫娘との応酬が始まっていただろう。

 同意者を獲得したロックは得意げな顔でエドガーを見たが、兄は友人を無視して少女に微笑んだ。

「おや、そうかな」

「だって王様じゃん」

「そうだけどね」

「筋肉男のほうがよっぽど厳しいの、意外だったんだ」

「まあ、俺も王宮育ちだからな」

 生家の城では朝昼夕の食事も教育の場だった。基本的なテーブルマナーにとどまらず、同席者の属性に応じた話題の選び方、受け答えの仕方など、王家としての振る舞いは一通り叩き込まれた。広すぎるダイニングルームに兄と二人座らされ、そばに控える教育係に一挙一動を指導されるのだ。美しい所作が身についた代償に、料理の味の記憶は定着しなかった。

 マッシュ自身の食の記憶に関して言えば、修行時のほうが印象は強い。師匠の一家の食卓で過ごした時間を、たらふく食べさせてもらった家庭料理の味を、マッシュは生涯忘れることはないだろう。そうした何気ない食事の楽しみをエドガーはどれくらい知っているのだろうか。あの温かな食卓が記憶に上るたびに思いをはせずにはいられなかった。

 エドガーは手についていたパンくずを指先で軽く払うと、ティーカップの取っ手をつまみ上げて中身を口に含んだ。

「確かに、きちんとしなければならない会食というのは多いけどね……個人的には好きではない」

「でもさ、すごいごちそうとか出るんでしょ?」

 目を輝かせているリルムに「夢を壊すようですまないけれど」と予告をしてエドガーはカップをソーサーの上に戻した。

「味も何もわかったものではないよ。こういう肩肘張らない場での食事のほうが私は好きかな」

「つまんない」

 彼女いわくの「ごちそう」の話が聞けると思っていたのだろうか。不服そうに唇を尖らせたリルムだったが、まだ諦めていないようだ。向こう側から身を乗り出してきて話を続けた。

「じゃあさ、今まで食べた中で一番美味しかったものってなに?」

「そうだなあ」

 顎を撫でていたエドガーが突然、マッシュを見やった。不意打ちで両の瞳に捉えられうろたえるマッシュに軽く片目をつぶってみせた後、どことなく楽しそうな視線をリルムのほうへと戻す。

「パンひと切れにバターひとかけ、そこにいちじくのジャムをたっぷり……あれは美味しかったな」

 その言葉が呼び水となって、マッシュの記憶は一瞬でとある場所へと導かれた。いたずらざかりの食べざかりだった十代前半の頃、夜半に忍び込んだ城の厨房だ。

 腹が減って眠れないというエドガーにくっついて立ち入ったその場所で、廊下に響く見張り番の足音に注意を払いながら、暗くひんやりとした貯蔵庫を物色したのだ。

 まず見つけたのはパンの塊だった。エドガーがどこからかナイフを探し出してきて、自分とマッシュのぶんをスライスしてくれた。さらに、パンの近くにはおあつらえ向きにバターとジャムが置かれていたので、それらも拝借した。

 バターの塩味と砂糖でよく煮詰めたいちじくの甘味が調和して、そこにさらに盗み食いを働くという非日常感も溶け込んでいたものだから、ごくシンプルな軽食は筆舌に尽くしがたい味がした。その時は特に空腹でなかったはずのマッシュも、気づけばパン二切れを平らげてしまっていた。

 それらは翌日の朝食に出される予定だったらしく、夜が明けて早朝の厨房は、管理していたはずの食材の量がおかしいといってずいぶん混乱したらしい。「犯人」はすぐに突き止められた。その後双子揃って世話係に厳しく叱られたことを知るのも、今やマッシュを含め一握りの者だけだ。

「えーっ、王様なのにそんなもんなの? ますますつまんない」

 リルムの言うこともわからないではなかった。王たる者の記憶に残っている食事として挙げるには、それはあまりに素朴だ。しかしマッシュは、あの時の味をエドガーと同じ尺度で、自分の味覚をもって知っている。

「ご期待に添えず申し訳ないね」

 からからと軽やかに笑ったエドガーは、これ以上の質問を挟まれる前にサンドイッチにありついた。

 大きなひとかじりの後に、軽く目が見開かれて、徐々に細められていく。同時に口角も緩やかに上がっていった。大人の顔つきになっても、美味にほころぶ表情はずっと前から――真夜中に厨房に忍び込んだあの頃から全く変わっていなかった。舌鼓を打っている横顔を、マッシュは自分の食を進めるのも忘れて見つめていた。

 戦いと政務の日々でともすれば忘れてしまいそうな、なんでもないような食事の幸福が、これからも兄のそばにあるように。

 そして願わくは自分もその隣で――祈りに近い静かな決意が、マッシュの全身に満ちていった。