変わらないもの

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「延期?」

 顔を上げたエドガーは今しがた大臣が発した言葉を繰り返した。報告のため執務室を訪れていた大臣は、軽く頷いて応える。

「はい、政局が落ち着かないので会談は日延べさせてもらいたいとのことです。つい先ほどジドールから書簡が」

「そうか……」

 明日、フィガロ城においてジドールの首長とエドガーとで会談を行う予定だった。その準備のため早朝から今に至るまで執務室にこもっていたエドガーは一気に脱力した。指の支えを失った羽ペンがかすかな音を立てて倒れた。

「再調整は? いつ頃になりそうだ」

「何とも言い難いところですな。先方は特に言及しておりませんでしたが」

「なら、これはもう少し後でもいいな」

 気を取り直して、エドガーはペンを再度手に取った。

 先ほどまで一心不乱に文字を書き連ねていた書類をまとめて机の端に追いやる。未処理の書類が積み上がった箱に手を伸ばし、何十枚かの紙束を机の上に広げた。すべて王の承認が必要となっている案件だった。

 とはいえ、例えば『練兵場に設置する的の追加購入のための予算承認申請』などは、果たして自分が目を通す必要があるものかどうか。頭の隅で思いながらもエドガーは次々と書類に承認の署名をしていく。

「報告ありがとう。下がっていいぞ」

「エドガー様」

「ん?」

「少しお休みになってはいかがですか」

 強く押し付けようとするわけではないが、かといって譲らない。この年上の臣下の性格がよく表れている声色に、エドガーは再度顔を上げた。

「そうは言うが……そうも言っていられないだろう」

 確かに、最近休みらしい休みをとった記憶はない。

 この世界から最大の脅威が、そして魔法が消えたのはほんの半年前のことだ。その間、各国各地域の復興は目覚ましい勢いで進んでいた。そのこと自体は喜ばしいが、そのなかでフィガロが果たす役割は大きい。多忙になるのは必然だった。

 加えて、急な変化はひずみももたらす。ジドールの政情不安が好例だった。今のジドール首長は改革派で、フィガロとの繋がりを強化しようとしているが、その一方で保守的な貴族層の影響力が依然として根強いのだと聞いている。そうした国々との関係についてどうかじ取りをしていくかという点も、エドガーの頭を悩ませている。

 頭を抱えたくなるという点では同じ立場であるはずの大臣は、きっぱりと言い放った。

「お気持ちも状況も重々承知しております。が、私どもとしてはエドガー様に倒れられる方が困ります」

「いざとなったらお前がなんとかしてくれ」

「陛下……」

 ため息をついた部下は、少しためらうようすを見せたのち、声を低めて言った。

「――殿下にご相談は?」

 これまでそれとなく投げかけられてきた問いが、今一度話題に上がる。

 マッシュがエドガーとともに城に戻って以来、大臣がことあるごとにエドガーに提案してきたことがある。統治権の一部をマッシュに委任してはどうかというのだ。

 帝国という強大な存在に立ち向かっていた時には、エドガーひとりに権力が集中している方が意思決定を早く進められるので都合が良かった。それに国としての方針も、大きくは対帝国でまとまっていた。

 しかし現状は、対応しなければならないことが多岐にわたる。それらのほぼすべてについてエドガーが決定権を握っていることが果たして本当にこの国のためになるのか。その是非が問われるべき段階に来ているといえた。

 それに今の世界を見渡してみれば、フィガロに向けられる視線は決して友好的なものばかりではない。世界崩壊の被害が比較的小さく、帝国なき今最新鋭の機械技術を独占しているこの国を、そして権力者であるエドガーのことを強く警戒する向きもある。

 現実主義者の大臣にしては思いきった提案も、これらの事情を踏まえて検討を重ねた末のことだと理解はしている。しかし、この件に関するエドガーの考えは一貫して変わらなかった。

「あいつを縛り付けたくない」

 弟のことを思うとエドガーの声は自然と穏やかになる。その一言だけで大臣には伝わったようだった。

「……かしこまりました」

 ひとまず引き下がったとみえた大臣だったが、眉間にしわを寄せながら付け加えた。

「それはそれとして、せめて今日くらいは息抜きなさってください。もとより今日は準備のために一日空けてあるのですから」

 こればかりは譲らないと言わんばかりの迫力だった。エドガーは苦笑し、観念した。

 

 すっかり休日から遠のいていたから、突然自由な時間ができても喜びより戸惑いのほうが強かった。廊下を歩きながらエドガーは何をしようかと頭をひねる。

 資料室に寄っていこうか。それならついでに先ほどの書類の内容についての調べものをしよう――油断しているとつい、先ほどまでの書類仕事に意識が行ってしまう。これでは息抜きにはなりそうもない。

 ならばマッシュのところにでも顔を出してみようかと考えたものの、弟は所用でサウスフィガロに出かけていることを思い出す。

 どうしようかとさまよう思考とは裏腹に、足は城門へと向かっていた。敬礼をする門番を労ってから、石造りのひんやりとした城内から一歩外に出てみる。その一瞬のうちに昼間の太陽が容赦なく照り付けてきた。まぶしさに瞳を焼かれるような感覚がずいぶん久々に感じられて、エドガーは少しぞっとした。直近の数日間、日中に城の外に出た記憶がないのだった。

 そこでふと思い立ち、エドガーはいったん自室へと戻った。砂地用のブーツに履き替えて、砂除け用の厚手の外套を羽織る。

 着替えの最中、作業机に置きっぱなしになっていた機械仕掛けのボウガンが視界に入った。時間を見つけては地道な改良を重ね、従来の半分以下にまで小型化が成功したのだ。片手でひょいと持ち上げ、留め具を使って腰のベルトに固定する。その他簡単な旅装を整え、これで準備は完了だ。

 再度城門を出たエドガーは城の裏手に回りチョコボ舎へ向かった。ちょうど今の時間帯は日陰になっていて、青年がひとり舎内を掃除していた。

「少しいいかな」

 世話係は振り返り、エドガーの姿を認めると、掃除道具を脇に置いて駆け寄ってきた。

「陛下、いかがされましたか」

「チョコボを一羽連れて行きたい。そこまで遠出はしないから夕方までには戻るつもりだ」

「かしこまりました。供の兵を呼んできますのでお待ちください」

「いや、必要ない。これで十分だ」

 外套の裾をめくって腰につけた小型のボウガンを示す。青年は目を見張り、あからさまに動揺した。

「しかし、陛下がお外に出られるときは必ず兵を呼べと、その、言われているのですが」

 取り繕えない素直さに少年の面影がある。彼は確かこの職に就いて間もないはずだ。彼の上長にあたる男が、最近真面目でチョコボの扱いもなかなか上手い新人が入ってきたのだと嬉しそうに報告していたことを思い出す。

 職務に熱心な彼に対してあまりに意地が悪いだろうか。そう思いながらも、エドガーは緊張で表情を固くしている青年に微笑んだ。

「君は確か最近この城に来たんだったね」

「は、はい。一ヶ月ほど前に」

「なるほど……このあたりはね、私にとっては庭のようなものなんだ。砂漠で迷うこともないし、万一魔物が出たとしても対処法はよくわかっている。だというのに公務でもない私の個人的な都合で兵を動かすのは、どうにも気が引ける」

 エドガーが滔々と説明するも、青年は表情を曇らせたままだ。彼の懸念を探るために、エドガーは説得の方向性を少し修正した。

「君の上司には、君には何の落ち度もなくむしろ私の指示をちゃんと守ってくれたのだと伝えておくよ。君の評価に響かないようにすると約束する」

「でも、その」

「極力君に迷惑をかけないようにするよ。どうだろうか」

 青年は何度か目を瞬かせると視線を落とした。少しのあいだ考え込む素振りを見せてから、意を決したように顔を上げる。小走りで舎の奥に向かった青年は、チョコボの手綱を引いてエドガーのもとへ戻ってきた。

「陛下……くれぐれもお気をつけください」

 おずおずと手綱を渡してきた青年は悲愴な面持ちで、エドガーをまるでこれから戦地にでも赴くような気分にさせた。そしてそれは不謹慎ながらも新鮮な心持ちだった。城勤めが長い者はエドガーの性格をすっかりわかっているので、王が自ら同盟国に敵対する地下組織の本拠地に向かう時でさえこのような見送り方はしなかった。

 引き渡されたチョコボはそわそわと落ち着かない。早く外に出たがっているのか、それとも世話係の動揺を感じ取っているのだろうか。

「ありがとう、すまないね」

 よく手入れされた羽毛をなだめるように撫でながら、エドガーは言葉通りの感情を苦笑いに乗せた。

 

 チョコボの背にまたがり外套のフードをかぶる。掛け声を上げると、応じるようにチョコボは高らかに鳴き、脚を踏み出した。

 走り出したが、どこかあてがあるわけではなかった。たまに軽く振り向いて、城がどんどん小さくなっていくのを肩越しに見る、それだけで冒険の前触れのような高揚があった。

 鉤爪が砂をしっかりと踏みしめる音がする。時折熱風が強く吹きすさび、フードで防ぎきれなかった細かい砂の粒が頬や鼻についてはそれを払う。そんなわずらわしささえ楽しんでいる自分がいた。

 しかし日陰もない砂漠をただ駆けているとさすがに消耗が激しい。そこでエドガーは、手綱を引いてチョコボを城の南西方面へと誘導した。その方角にはかつてチョコボ屋が店を構えていたが、世界崩壊のあおりを受けて、相当年季の入っていた小屋は倒壊してしまった。店の主人とチョコボたちはどうにか避難できたと聞いているが、元通りに営業を再開することは困難だろう。

 そんな状況にありながら、周辺の森は奇跡的に生きていた。焼かれ枯れた木々も多く、森というよりは林と言った方が実態に即しているような規模になってはいる。それでもここはフィガロ城周辺における貴重な緑地だった。

 チョコボから降りたエドガーは手綱を引き、まだ片付けの済んでいない小屋の残骸を避けながら呟いた。

「確かこのあたりに……」

 周辺を見回すと、目的のものがかすかに見えた。ともすれば見落としてしまいそうな小さな泉が木々のあいだに隠れていた。

 そこまでチョコボを引いていくと、相当喉が渇いていたのか、たちまち澄んだ水面に大ぶりなくちばしを浸し、夢中になって水を飲み始めた。それを見て自身の渇きを自覚したエドガーは、鞄から水筒を取り出し中身を呷った。

 それから重い外套を脱ぎ、腰につけていた小型のボウガンも外してしまって、誰も見ていないのをいいことにその場にあぐらをかいた。

 もう一度水を飲み、空を見上げる。梢を通して森に満ちる光は、砂漠に照りつける太陽光と同じだとはとても思えなかった。

 木の上で野鳥がさえずり、風に吹かれた葉が擦れる音がする。そこにチョコボが水を飲む音が重なる。ずっと昔から今に至るまでこうだったかのように、静かで平和な時間だった。しかしそうではないのだと、視界の端に映る瓦礫が語る。変わらぬものなどないのだと、無慈悲に突き付けてくるようだった。

 その時、遠くで物音が聞こえてエドガーは我に返った。

 誰か、いや、何かがこちらに向かってきている。響いてくる足音から察するに、四足歩行の野生動物か、あるいはモンスターの生き残りだろうか。しかしそれにしては、その音は迷うことなくまっすぐにこちらに向かってくる。

 万が一を考え、エドガーはいつでも立ち上がれるよう片膝をつき、ボウガンに手を伸ばそうとした。しかし木々の合間から見えたのは、予想していなかったが見覚えのある黄色い羽毛だった。

 おや、と思うや否や、よく見慣れた顔が大木の陰から現れた。

「出かけるなら誘ってくれよ」

 わざとらしくすねたように言いながら、マッシュが歯を見せて笑った。

 すっかり日焼けしている笑顔を見て緊張がふっと解ける。ボウガンに伸ばしかけていた手を止め、再度ぞんざいにあぐらをかいて弟の顔を見上げた。

「おまえ、いなかっただろ。用事は済んだのか?」

「ああ。帰りがけにこっちに向かうチョコボを見かけてさ。なんとなく兄貴だと思ったから、城に荷物だけ置いてそのまま来た」

「違ってたらどうするつもりだったんだ」

「合ってたからいいじゃないか」

 エドガーと同様森の入口まではチョコボに乗ってきたのだろう。マッシュは先ほどエドガーがしたように、後ろでおとなしく待っていたチョコボの手綱を引いて泉へと導いた。

「ここの湧き水はうまいぞ、ほら」

 主に促されたチョコボは、先客の隣で自らも泉にくちばしを浸した。おいしそうに水にありついているチョコボの首を指先でかいてやりながら、マッシュはエドガーのほうを向いた。

「兄貴、あまり城の皆を困らせるなよ」

「何の話だ?」

 心当たりを探すエドガーに、マッシュは軽くため息をついた。

「チョコボ舎の新入りの子だよ、帰るなり捕まって泣きつかれたぜ。やっぱり陛下を一人で行かせるべきじゃなかった、せめて行き先を聞くべきだった、って……上手く言いくるめたんだろ」

 エドガーは押し黙り、ふわふわと揺れている二羽分のチョコボの尾を見つめた。返す言葉もなかった。沈黙で全てを察したのか、マッシュは腰に両手を当てて、聞き分けのない子どもを諭すかのようにエドガーを見下ろした。

「相当気を揉んでたから、帰ったら声かけてやってくれよ」

「わかったよ……彼には悪いことをした」

「俺はあまり心配してないけど、まあ、そういうわけにはいかない人もいるからなあ」

 もしここに旅路をともにした仲間たちがいたら、どちらが兄だか解りやしないと口々に言って笑っただろう。そのようすはありありと想像できた。

 そうして仲間たちひとりひとりの顔を思い浮かべていると、それまでぼんやりと意識に上るだけだった旅の記憶が、突如として強いわびしさでエドガーを揺らした。世界を自分の目で捉えることができたあの時間が、王として肩肘張らずともよかったあの日々が、今になって無性に惜しくなった。

 自分の使命を思い出せと、自分はもう国を離れることを考える立場にないのだと自分に言い聞かせても、余計に感情は強まるばかりだった。

 その拍子に、常々頭の隅を占めてはいたが秘めておくつもりだった疑問が口をついて出ていた。

「ところで……お前は?」

 不完全な質問にマッシュは首を傾げ暗に続きを促す。撤回するにも中途半端で、仕方なくエドガーは続けた。

「この先、ずっと城にいるつもりなのか?」

 なんだそれ、とマッシュは短く笑い質問で返した。

「追い出したいの?」

「違う。まあ、小言は勘弁してほしいが」

「じゃあどうして」

「いや……たいしたことじゃないんだ」

 強引に話を終えようとしたが、マッシュの視線が、たいしたことではないなら言えるだろうと圧をかけてきている。諦めて、エドガーは白状した。

「お前も、あの旅のことを懐かしむことがあるのかと思ってね」

 危険と隣り合わせではあったが、今となってはこれ以上ないほどに自由な旅路だったと思う。

 今しがたのエドガーのようにその自由に思いを馳せて、またいつか世界を直に見たいとマッシュが願うのであれば、エドガーにはそれを引き止めることはできない。父王亡き後にマッシュが得た自由を奪う権利は、何人にも――エドガーを含め――ないのだから。

 マッシュはしばらく何も言わず、表情から何か読み取ろうとするかのようにエドガーの顔を見つめていた。

「あのなあ、兄貴」

 やがて深くため息をついて、頭をかく。

「一人でばかり考えて結論を出されるのは、俺もう嫌だよ。まさか忘れてないだろうな? 俺は兄貴に国を押しつけたわけじゃない、って言ったろ」

 崩れ行く瓦礫の塔で確かに聞いた弟の言葉。切迫する状況で響いた低く力強い声は、崩落音にかき消されることなく、ひとことひとことがエドガーの耳に届いていた。

 忘れられるはずもなかった。弟の覚悟の表明は、それ自体が、弟が強くなったことを証明していた。

 しかし、それでも――

「悪いが、もっと詳しく思い出させてくれるか」

 肩をすくめてとぼけてみせる。マッシュは渋い表情を作り、エドガーをまじまじと見た。

「その顔……絶対覚えてるな」

 エドガーは答えずに立ち上がり、マッシュを見上げると、昔とはずいぶん異なる位置にある頭に手を伸ばした。少し日に焼けてあちこち跳ねている髪を撫でつけるように手を置く。

 虚をつかれたのか、マッシュは憮然とした顔を作るのも忘れて口をつぐんだ。目を丸くして唇を引き結んだ表情が、十年以上前から大して変わっていない。

 エドガーは頬を緩ませた。

 確かにマッシュは強くなった。そして王としてのエドガーにとって頼もしい存在になった。現に、外交や兵士の訓練など大きく頼っている部分もある。

 それでも、エドガーにとって大事な弟であることには変わりないのだ。そしてそれは、きっとこれからも変わることはない。

 十数年ほど前にそうしていたように、マッシュの頭に置いていた手を無造作にかき回した。直情的に物事を言えないときの、エドガーなりの思いの伝え方だった。

「おい、もう子どもじゃないんだから」

 苦情混じりの、しかしどこか楽しげな声が大きく森に響いた。

 渇きが癒えて、いつの間にか互いの羽繕いを始めていたチョコボ二羽が心なしか驚いたような顔をしてエドガーたちを振り返った。

 それに気づいて、エドガーとマッシュは思わず顔を見合わせる。エドガーがぼさぼさにしたマッシュの髪が、その色も相まってチョコボと重なって見えた。

「……なんだか似ているな」

 呟いて、その可笑しさに自分で耐え切れなくなって、エドガーは軽く吹き出した。

 それを見て不服そうにしていたマッシュも、呆れたのかつられたのか、やがて仕方ないといったように破顔した。