6.思わずいつものクセで

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 うららかな陽気と寒の戻りの曇り空。そのふたつを行ったり来たりする時季の夜だった。

 今日は後者だったので室温はそう高くなく、少し肌寒いくらいだ。しかし今に関しては、身体は未だに汗ばんで、先ほどまでの余韻を引きずっている。

「――水、浴びてくる?」

 息が落ち着いてきたころに発した声はかすれていた。マッシュの問いに、エドガーはすでにまぶたを閉じながら口の中でつぶやく。

「明日にするかな……」

「俺もそうする」

 あくびをして、マッシュは仰向けに寝るエドガーの隣に寝転がった。今感じているけだるさは、つい先ほど満たされたことの何よりの証拠だった。寝台を覆う天蓋を眺めながら身体をシーツに沈めると、全身が泥のように重くなってくる。服を着るのさえおっくうだった。

 マッシュは顔を横に向けて、静かな息づかいで寝入ってしまったようすのエドガーの横顔をしばらく見つめていた。しかし、そろそろ目を開けているのがつらくなってきた。もう一度あくびをして、自分もまぶたを下ろそうとした。

 その矢先、ふいにエドガーが目を開けた。マッシュは少し面食らいつつ、そのまま何を言うでもなく上半身を起こしたエドガーの行動を、視線で追いかける。

 まずエドガーは、二人の足によって蹴とばされベッドの隅に追いやられ、すっかり存在を忘れられていた掛け物に手を伸ばした。広げて、その半分――よりは割合が大きいかもしれない――をマッシュの身体にかける。余った面積をおざなりに自らの身体に巻き付けながら、マッシュの方を向いて寝転んだ。

「寒くないか」

「……ああ」

 寒くはないが。素直に答えつつも、マッシュの声と表情には隠すつもりのない複雑さがにじむ。

 それに気づいているのかいないのか、エドガーは目を細めた。そして今度は、マッシュの頭に片手を伸ばしたかと思うと、指ですくようにして髪を撫でつけ始めた。うかがったその表情はどこか満足げだ。

「あのさ兄貴……前から思ってたんだけど」

「ん?」

 心地の良い手によって眠りに引きずりこまれそうになりながらも、耐えて、マッシュはかねてから思っていたことを口にした。

「こんな時くらい、兄貴ぶるのやめろよ」

 エドガーがこういうことをするのは今日が初めてではない。無意識なのか、冗談のつもりでわざとやっているのかはわからない。いずれにせよ、これではまるで自分たちの幼い時分、「レネの世話を焼いて可愛がるロニ」の構図そのものだとマッシュは思う。

 でも今はもう、そうではないはずだ。

 そう言外に訴えるマッシュの苦情混じりの声と言葉に、エドガーは目を眇めた。

「なら、お前もこんな時くらい『兄貴』呼びをやめてみたらどうだ」

 自分の言動を振り返ってみろというエドガーの言葉に、マッシュは何回か瞬きをして、それから人差し指で軽く頬をかいた。

「……俺、『兄貴』って呼んでた?」

 言われてみれば、ついさっき自分でそう呼びかけていた気がしないでもない。

「無意識だったか」

 マッシュの思考を読んだように言って、エドガーは短く笑った。マッシュも苦笑した。頭で考える前に、常日頃使っている呼び方が口を衝いて出てしまうのだった。

「もうこの呼び方がクセになっちまってるからなあ」

 日常でいつもの呼び名以外を用いることはめったにないから、いざ呼び方を変えようとしてもとっさに出てこないかもしれない。少し練習しておくかと考えて、おかしそうな顔のエドガーを横目に見ながら、さっそく何の気なしにマッシュは呼んでみた。

「エドガー」

 マッシュの髪をもてあそぶ、兄の指の動きが急に止まった。おや、と思った次の瞬間には、エドガーはさっと手を引いてマッシュに背中を向けた。

 今さっきまで甘い雰囲気だったところ、急にそっぽを向かれてはあまり愉快な心地はしない。マッシュも身体の向きを変えて、エドガーの背中と自分の胸をすきまなく合わせるようにした。まだ少ししっとりとしている身体に両腕を巻き付けながら、もう一度呼びかけた。

「なあ、エドガーって」

 エドガーはかすかに身じろぐが無言のままだ。

(……ああ、なるほど)

 そこで合点がいった。いつもは饒舌なエドガーがこのような反応を返す時というのは、大体どういうときか決まっている。マッシュは、エドガーの表情を見たい衝動に駆られる一方で、自分の顔が今エドガーから見えないことに安堵した――こんなにしまりのない表情はとても見せられない。

 目の前に緩やかに波打つ長髪をそっとかき分けた。あらわになったうなじに唇を落とす。そこを起点についばむようにして首筋を辿っていき、耳の後ろを軽く吸う。

 そして、ほんのいたずらのつもりで、それにエドガーが弱いということをわかったうえで、声をいつもより低くして呼んだ。

「ロニ」

 エドガーはやはり何も言わない。代わりに、マッシュの腕の中で小さく身体が震えて、その直後に深くため息をつくような声が聞こえた。

「……余計なことを言ったもんだ、俺も」

 売り言葉に買い言葉だったのかもしれないが、呼び方を変えてみろと提案したのはエドガーだ。どこか悔しそうな兄の声に、マッシュは調子づいた。

「次する時さ、どっちで呼ばれたい?」

 耳たぶを軽く吸って、唇で食んでから囁く。それとともに、「次」の機会がすぐに訪れることを期待するマッシュの手がエドガーの身体を辿る。汗の引きかけた身体が再び熱を帯びていくのは気のせいではないと思えた。

「なあ……どっちがいい」

 もう一度耳に声を流し込んだ。それからまた首筋を吸って、今度は舌でもなぞった。手は、今は太もものあたりをさぐっている。規則的だったエドガーの息づかいがわずかに乱れはじめた。

「――いつも通りでいいよ」

 ふと、吐息の合間にエドガーがぽつりとつぶやく。その言葉に、「そうか?」とマッシュは少しだけがっかりしたような気になった。たまには違う感覚が味わえてよかったかもしれないのだが、などと考えているうちに、エドガーは続ける。

「いつものお前がいい」

 それを聞いて、今度はマッシュが動きを止める番だった。

「……どんな顔で言ってんの、それ」

 かろうじてそれだけ絞り出す。エドガーは振り向かないが、どうやら笑っているようだ。

 身を起こしたマッシュはエドガーの顔を覗き込もうとした。エドガーはマッシュの視線から逃げるようにして顔を背け、そのまま枕にうずめた。横顔の一部分しか見えず、表情をすべてうかがうことはできない。それでも、上がった口角と、抑えた笑い声までは隠しきれていなかった。

 何がそこまで面白いのか、正直なところマッシュにはよくわからなかったが、どうしてもエドガーにつられずにはいられなかった。

「兄貴、笑いすぎ」

 マッシュは、自分とエドガーにかかっていた上掛けをはがしてしまい、適当に丸めてベッドの隅へと放った。もうしばらくはなくても平気だろう。

 それから身をかがめて、楽しそうにほころぶ頬に唇を寄せた。エドガーがこちらを向くまで、何度も何度もキスを落とした。