「288号、ボク……なんか最近変なんだ」
少しばかり風は冷たくも、やわらかな日差しのぬくもりが心地よい日だ。
先のふにゃりと折れたとんがり帽子の下には、あわく金色に光る瞳。聞いてほしい、でも言い出しにくい。少年の声色からはそんなためらいがありありと浮かぶ。
288号と呼ばれた、この家の主である青年は首をかしげる。とりあえず、素朴な木のテーブルに、ほこほこと湯気をたてるマグカップを二つ置いた。
「どうぞ」
うながすと、少年は礼を言いちいさな手でマグカップを包んだ。
少年――ビビは、おそるおそる淹れたてのミルクティを少しずつ口に運ぶ。猫舌そのものの仕草に、青年は思わず顔をほころばせながらも、もう少し冷ましてから持ってくればよかったかななどと若干後悔する。
ビビがこくり、とのどを上下させたところで、288号はゆっくりと切り出した。
「それで、変……というのは?」
「あのね、なんて言ったらいいのかな……」
マグカップを置いた両手があわさり、所在なさげに握っては開き。緊張しているときの仕草だと288号は知っている。
少しして、ビビは意を決したように顔を上げた。
「ジタンがね……ジタンと、いっしょにいるとすごくどきどきして苦しいんだ。だからといって離れたいわけじゃないよ、むしろもっといっしょにいたい」
丁寧に言葉を紡ぐビビの声が、殺風景な部屋に積み重なっていく。
「でも、そう思えば思うほどもっと胸が苦しくなる……もし、何か起こってジタンとはなればなれになったらどうしようとか、そんな変なことばかり考えちゃうんだ」
ちょっと前まではこんなこと、なかった。最後にぽつりと落としたひとしずくをもって、ビビはうつむいてしまった。
288号は、無性にビビの頭を撫でたい衝動に駆られた。なぜかはわからなかった。ただ、そうしなくてはいけないと、使命感のようなものさえ感じた。そこまで思って、内心苦笑する。
「使命感」と「命令」との違いは、そこに自分の意思が介在できるかどうかだと288号は考える。自分が意思というものを持つに至ったことを、まだ心の底から信じきれているわけではなかった。
辛いのだ。残された時間はけして長くないのに、またいつかあの物言わぬ人形に戻ってしまうのではないかと恐れて暮らすのは。
脱線した思考は脇に追いやり、今はただその衝動のままに行動する。
テーブルの向かいにゆらゆらする小さな麦わら帽子の上から、そっと手を乗せてみた。ゆっくりと顔を上げたビビは、帽子のつばの下からきょとんとした表情をのぞかせる。
自らの行動を説明できない288号は、自身も戸惑いつつ、ビビの意識をそらすために話を続ける。
「えっと、何かきっかけに心当たりは?」
「きっかけ……」
自分達は同じ、造られた命だ。だけど、造られたとはけして思えないほど考え、悩み、そして笑うビビは、288号にとって少し眩しい。
きっと知識もこの子の方がずっとたくさんの物を持っているにちがいない。ただ今はそれをうまく言葉にできないだけで。少年の気持ちの整理の手伝いができるなら、とありったけの知識をかき集める。
「きっかけとなるようなできごとや、誰かの言葉があって、今まであまり意識していなかったことが気になると。そういうこともあるらしいからね」
ビビは少し考え込んでいたが、急にぴしりと音を立てそうな勢いで固まってしまった。
「……どうしたの?」
心配になった288号が覗きこむ。それを避けるようにビビはマグカップの中身を思いきりあおり、そして、
「っ、あつ、ぅ、」
「あ」
やっぱり冷ましてから持ってくればよかった、と再度288号は後悔した。
冷たい水を口に含ませて、コンデヤ・パタで仕入れた甘い甘いはちみつを舌に乗せて、ビビは少しずつやけどのピリピリがおさまってきたようだ。
「ひとつだけ、あるよ。きっかけ」
はちみつを舐めながら、やけどのせいで舌足らずに言う。
「ボクがうっかりしててモンスターにひっかかれたの。とっさに立ち上がれなくて、詠唱もうまくいかなくて……でもジタンが助けに来てくれた。ボクがひとりでふらふらしてたせいだから、怒られると思った。でも、ジタン、すごく安心したような顔して……抱っこしてくれた。そのときの顔、思い出すんだ。何でもないときでも」
そう語るビビは今この瞬間、ジタンのことを思い出しているのだろう。口元がわずかに笑みを浮かべていることに、本人は気づいていない。
どうしたら君みたいにみずみずしい感情、感覚を得られるのか、そう問いたくて仕方がなかった。
羨んだって仕方のないことだった。だけど、思わずにはいられない。そこまで考えてから、288号は、「羨む」という感情の引き出しを自分が持っていたことに初めて気づく。
――この子、いや、この子たちは僕にいろんなことを教えてくれる。前向きな感情も後ろ向きな感情もすべて受け入れて、生きるうえでの諸問題、あるいはもっと根源的に、「生きる意味」そのものについて悩んで、悩んで。それこそが「生きている」ということなのかもしれないと、教えてくれる。
「……ビビは、ジタンのことが大好きなんだね」
「えっ?」
思わず口をついて出た言葉に、ビビが丸い目をますます丸くして驚いたようにこちらを見る。
「で、でも、好きっていうのは、もっと、」
例えば、大好きなおいしいお菓子を前にした時のわくわくとした気持ち。甘いかけらを口に入れたときのあの満たされるような気持ち。そんな、やわらかな感情なのだとばかり。
少年の素朴で素直な感想に、288号の唇から笑みがこぼれた。
「君の気持ちは君だけのものだ……だからこれから言うことはあくまで僕の考えだ。たぶん、君がジタンに対して持っている感情は、そういう『好き』とは違うところがいっぱいあるけど、『好き』であるという点においては変わりないんだと思う」
体温と同じくらいの温かさになってきたカップを両手で包んで、288号は続ける。
「ただ、惜しむ気持ちがより強く出ているんだと思う。そうだな……お菓子を食べ終わりそうな時、食べ終わりたくないような、ちょっと惜しいような気持ちにならないかい?でも、お菓子ならまたどこかで買ってきて食べればいい」
ビビは戸惑った表情ながらも、あいづちをうつ。
「ジタンは、一人だけだ。代わりはいない。だから、いっそう離れることが惜しい。離れることを思うと胸が苦しくなる。一緒にいたいと、そう思う気持ちが強くなればなるほど、ね」
「じゃあ、一緒にいてどきどきするのは……? これも「好き」だからなのかな」
「ふふ、どんどん難しくなっていくね」
「ご、ごめんなさい」
「いいんだよ。そうだね……」
288号が腕組みをして考え始めたちょうどその時、軽快にドアをノックする音がした。
「よっ」
ドアのすき間からひょこりと顔を出したのは、まさに話題にあがっていた人物で。ビビのまとう雰囲気が先ほどとはどこか変わったのを288号は感じた。
「やあ、どうしたんだい?」
「ビビを探してたんだ」
288号に答えてから、ジタンはビビに笑いかける。
「これから装備を揃えに行くとこなんだ。カッコいいの選んでやるから、おまえも一緒に来いよ」
こくり、とうなずくビビの横顔を見て、288号の脳裏にとある単語がふっと浮かぶ。知識として持っていたのかもしれないが、それにしては何だか遠い昔のことを思い出したかのような、不思議な心地がする。遠い昔の記憶など、存在しようもないのに。
(そうか……「これ」こそがきっと君のジタンへの気持ちを表す言葉なんだね)
288号がたどりついた答えはしかし、まだビビが自覚していないのにジタンの前で言うわけにはいかないから。
(また今度、だね)
ジタンに手をとられながら、ごちそうさまでしたと律儀に頭を下げる小さな黒魔道士に手を振って、288号は自分の心が許すままに微笑んだ。