今朝は雲ひとつない青空の下を穏やかに吹いていた風は、今は断続的な突風となって、雪道を歩む旅人たちの行く手を阻もうとしていた。
吐いた息も、白く浮かび上がったと思ったらすぐに強風にかき消される。その風の中に雪もちらつき始めたのを見、エドガーは顔を仰向けた。
頭上では、底が薄墨色をした分厚い雲が空全体を覆わんとしていた。遠くの方にはまだわずかに淡い青色が見えるが、じきにすべて塗りつぶされてしまうだろう。
本格的な吹雪になる前に飛空艇に戻らねばならなかった。この地点から飛空艇までは著しく遠いわけではないので、急げば間に合うと思われた。しかし、世界に異変が起こった以降ほぼ無人と化したナルシェの探索とモンスターとの戦いは、予想外に一行の体力を消耗させていた。強行突破は得策ではないだろう。
そう判断したエドガーは辺りを見回し、予想される荒天をやり過ごせる場所を探す。そこへ、硬質な黒にところどころ雪を冠した岩山、その山肌にぽかりと空いた穴が目に留まった。
「マッシュ」
ガウとリルムを率いてエドガーの後ろをついてきている弟に、前を向いたまま呼びかける。歩きながら右前方を指さした。
「あの洞窟になってる場所が見えるか? ひとまずあそこで体勢を整えよう」
しかし返事はない。エドガーは足を止めた。よく耳を澄ませてみると、後ろに続いていたはずの足音も聞こえない。
振り返って見ると、マッシュは十歩ほど後方に立っていて、エドガーと目が合うと苦笑を見せた。両手を、「降参」の意思表示をする時のように軽く顔の横に上げている。
そんなマッシュの防寒具が、不自然に膨らんでいた。一緒に雪の山道を歩いていた少女と少年が、それぞれマッシュの両開きのコートの中に入り込んでいた。
「何やってるんだ」
察しはつくが、マッシュたちの方に歩み寄りながら、一応エドガーは聞いてみた。
「さっきからくっつかれて動けなくてさ」
まいったよ、とマッシュは頭をかいた。一方、毛布をたぐり寄せるかのようにコートの裾を引きながらリルムが言う。
「だって寒いんだもん」
「かぜ、つめたい。でもマッシュあったかい」
ガウもマッシュで暖をとりつつ、赤くなった鼻をすすりながら呟いた。
「でもさ、これじゃ正面からの風は防げないの」
そう言うリルムを見てみると、右半身はマッシュのコートにくるまれているが、左半身は確かにカバーできていない。
「うん、まあ、一着のコートを三人で分け合ってるからそうだろうね」
他に言うことが思いつかず、エドガーは素朴な感想を口にした。
「だから色男もこっち来て、筋肉男の前に立ってて」
「私は風よけの役かい?」
突飛な指示に、つい愉快な笑いが漏れた。エドガーは腰をかがめて二人に目線を近づけた。
「これから風をしのげそうな所に移動するからそれで勘弁してくれないかな、お嬢さん。とガウもね」
諭されて、リルムとガウはしぶしぶといったように大きなコートから抜け出た。途端に二人は肩をすくめて震えあがる。風と雪の勢いは少しずつ、しかし着実に増していた。
「がう……はやく、いこう」
足踏みしながらせかすガウに従って、エドガーたちは山肌の洞窟へと急いだ。
あまり期待はしていなかったが、洞窟の中は案外広い空間が広がっていた。テントは無理でも、寝袋なら二、三は並べられそうだった。
雪と風がない分、寒さは大幅に軽減されたが、奪われた体温を取り戻すには足りない。ここに入る前にかき集めた枯れ枝や枯れ葉と、火の魔法とで起こした小さなたき火を囲んで、一行は暖を取った。
ふいに、ガウの口数が減っていることにエドガーは気づく。炎を挟んで正面にいる少年を観察してみると、まばたきにしてはゆっくり過ぎる速度でまぶたが閉じられ、少ししてからはっとしたように再度開く。それを何度か繰り返していた。
「ガウ」
まぶたが落ちてまるまる五秒を数えてから、エドガーは呼びかけた。
「……う?」
「寝袋で寝なさい。今出すから」
荷物の中から折りたたまれた寝袋を二つ引っ張り出した。うち一つを隣のマッシュに手渡し、広げるよう指示する。それからエドガーはリルムの方を向いた。
「君も少し休むといい」
「リルム、まだ元気だから大丈夫だよ。眠くないし」
ひざを抱えて座るリルムを、マッシュは寝袋の準備をしながら横目で見た。
「そうか? 結構派手に魔法使ってたように見えたけど」
「でも……二人は?」
「私たちは大丈夫だ。どちらにしろここは、全員が横になるには手狭だしね。ほら、ガウ」
寝袋を広げ終えて、ガウに手招きをしながら、エドガーは続けた。
「天気が回復したらすぐに出る。今のうちに休んでおいてほしいんだ」
リルムはまだ少しためらっているようだったが、やがてひとつ頷き笑顔を見せた。
「ありがと……実は少し、疲れてたんだ。本当にちょっとだけだけどね」
すでに横になっているガウの隣に並べられた寝袋にもぐりこんだリルムは、それから十分もしないうちに寝息を立て始めた。
「『ちょっとだけ』どころか相当疲れてんな」
声を落として、マッシュは苦笑した。それからエドガーの方へと視線を向ける。
「兄貴も少し休んだら? 火は俺が見とくよ」
「いや……大丈夫だ」
しかし、とエドガーは小さく息をついて、時折頼りなく揺れる小さなたき火に目をやった。
「もう少し暖かくできればいいんだがなあ」
魔法で勢いの強い炎を起こすこと自体はできるが、焚き木を燃やし尽くして火持ちをさせないようでは意味がない。焚き木になりそうなものをもう少し探してきた方がいいだろうか。
「そういうことなら、はい」
考えていたところに声をかけられ、エドガーは目を上げる。妙にまじめな表情をして、エドガーに向かって両手を広げているマッシュが視界に入った。
「俺、体温高めだからあったかいと思うぜ」
「ん?」
要領を得ず、軽く眉間にしわが寄った。
「いや、もう少し暖かくって言ったから」
「ああ……俺じゃなくて火を――」
マッシュはそこでエドガーの言葉をさえぎった。
「それに兄貴、寒がりだろ」
その物言いにはどこか違和感があった。エドガーはわずかに首を傾げる。
しかし、かすかに緊張の色がうかがえるマッシュの表情を見ていたら、その違和感の正体に気がついた。マッシュが向けてくるまなざしの中に答えはあった。
エドガーは密かに息を飲んだが、それを悟られないよう軽く笑ってごまかした。そして、マッシュの方に身を寄せた。
「寒がりね……そういうことにしておこうか」
あぐらから膝立ちになって、広げて待っていた腕の中に身を委ねた。肩と背中に絡みついた腕が強く引き寄せてきた。
密着した胸が、冷えた体の中で唯一熱い。厚い防寒具越しのため互いの鼓動は伝わらない、そうわかっていながら、自分の心臓の拍動が相手と共鳴していると勘違いしそうになった。
――寒い夜、互いのベッドに潜り込み抱き合って眠った幼い日々を思い出す。その甘やかで暖かい領域の辺縁をいくら延ばしても、もはやそこには二人が求めているものはない。
それ以上を望むのであれば、向こう岸に渡らねばならない。そしてそのためには、あまりに深い溝を越えなければならなかった。
その決心は未だつかずにいる。
「さみしがりだなあ、お前は」
だからこうして口実を見つけては、それに甘えるのだ。
「そういうことにしといて」
エドガーの首筋に顔をうずめるマッシュの声がかすかに震えた。エドガーはその心情を想像する。
言わずとも伝わるというのも考えものだった。結局のところ、それが発端だったのだから。
エドガーは静かに目を閉じた。そして、ただ、心地よい体温を感じることに集中した。