いとおしむ心

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 飛空艇の中心部の開けたこの場所には、いつもは待機中の仲間たちが集う。しかし休息日の今この時だけは、小さなヘアサロンと化していた。

 

 小ぶりな手が髪をすくい上げて束を作った。一本も後れ毛を作るまいとしているかのように、丹念に手ぐしが入れられる。

 そうして懸命にまとめられた束がリボンでくくられた。と思ったら、何か気にくわないところがあったのか、すぐにしゅる、とほどかれる。再度結ばれたが、今度は結び目が甘く髪がほつれてきてしまった。

 何でも器用にこなせるこの少女でも、長い髪の扱いに関しては不慣れのようだ。やり直すたびに、負けず嫌いな気質そのままに、髪の束を押さえている手に力がこもっていくのを感じる。

 ここ数分のあいだ椅子にかけながらリルムの手に頭を預けているエドガーは、ひそかに苦笑した。

「できた!」

 やがて、達成感に満ちた声とともに引っ張られる感覚が止んだ。いつもよりも高い位置で髪が揺れる感触があった。ひと仕事終えたリルムは、さっそく少し離れたところにいる他の二人に呼びかけている。

「見て見て。セリスとおそろいにしたの」

「あ……ほんとね。すてき」

 ティナの、笑みを乗せた声が称賛の言葉を紡ぐ。エドガーはなんとも言えずくすぐったい心地になった。

 おそろいと言われても、手元に鏡がないのでどのような具合なのかよくわからない。ひとまず後方に立つセリスを振り返ってみた。彼女はエドガーの意図を察したらしく、背を向けて髪型を見せてくれた。

 今のセリスの髪はティナによって整えられたものだ。後頭部の高めの位置で丁寧にまとめあげられた髪に、青いリボンがあしらわれている。そして少し毛先に近づいたところに、もう一本結ばれていた。

 どこかで見たことがある気がした。記憶をさらったところ、オペラに出演した時の彼女の髪型に似ているのだと思い至った。

「似合ってるじゃない」

 再度エドガーに向き直ってセリスは微笑む。本人としては「おそろい」と称されたことに特に抵抗はないらしい。

 しかし、たとえ本人がよくても、この光景に心穏やかでいられないであろう人物に一人心当たりがある――エドガーは、バンダナ頭の親友の渋い表情を想像して内心で笑った。

「あいつが見たら怒るだろうなあ」

 誰に聞かせるでもない呟きをいち早く拾ったのはリルムだった。

「あいつって誰?」

「さあ、誰かな」

「なんで怒られるの?」

「なんでだろうねえ」

「すーぐそうやってごまかす」

 疑問をことごとくかわされて、リルムは頬を膨らませた。エドガーから聞き出すのは早々にあきらめたらしく、今はセリスを見上げている。

「ね、セリスは『あいつ』が誰なのか知ってる?」

「……知らない」

 問いかけに答える表情は涼しいものだったが、頬の高いところにほんの少しだけ現れた、ぽうっとした色味まではごまかしきれていなかった。

 セリスは一瞬うらめしげにエドガーを見た後、ふいと視線をあさっての方向に泳がせた。

「何やってんだ?」

 そこへ、通りがかったマッシュが床材をきしませながら近づいてきた。女性三人が囲む中心にぽつんと兄がいる、そんな妙な空間を見渡して困惑顔を見せた。

「髪をセットしてもらっていてね。うらやましいだろう」

 より正確には、当初は、いつもと違う髪型を試して楽しむ三人を微笑ましく眺めていただけだった。それがいつの間にか当事者として巻き込まれ今に至る。そのことを見抜いているのか、マッシュの目は呆れたように天を仰いだ。

「ほんと女の子に甘いなあ、兄貴は」

「マッシュもやってあげようか」目を輝かせてリルムが会話に加わる。

「いやいや、いいよ。この長さじゃいじくってもあまり面白くないだろ」

 マッシュは自分の後ろ髪を軽く引っ張ってみせている。この場の誰よりも髪が短いリルムは、心外とばかりに腕を組んだ。

「わかってないわねえ、筋肉男は」

 少女の頭にはいつものベレー帽はない。代わりに、蝶と花のモチーフがあしらわれた髪留めが耳の上に光っている。先ほどティナがリルムの髪の仕上げにと付けていたものだ。

「短い髪でも、それはそれでやりようがあるのよ」

 つんとすました得意げな顔に、大人びた調子のせりふ。それらを受けてマッシュは、へえ、と感心したような声をあげている。一方、かたわらで聞いていたティナは軽く首を傾げた。

「それ、さっきわたしが言ったこととおんなじ……」

 呟いた直後、頬がじわり緩んでいく。それからティナは、口元に手を当てて小さく笑いだした。

「あっ、言わないでよティナ……それになんで笑うの」

「ごめんね。かわいくて、つい」

 格好つけたいもくろみが失敗して眉を下げるリルムに、ティナの笑顔はますます深まった。

 リルムの百面相を楽しんでいたエドガーもとうとう、こらえきれずに吹き出した。当然ながら、さらにリルムの不興を買ったのだった。

 

 急降下したリルムの機嫌は、少しばかり早いお茶の時間にすることでなんとか上向かせることに成功した。

 しばらく五人で過ごした後、エドガーとマッシュは一足先に二人にあてがわれた部屋まで戻ってきた。

「髪、そのままにしとくのか?」

 一人がけのソファに身を沈めていると、後方から声が飛んでくる。ベッドに寝転がっているマッシュの視線が、高く結われた髪に注がれているのを感じた。

「せっかくだからね。もうしばらくは」

 振り返って見た弟の表情は、何か思うところがありそうだった。どうしたのかと尋ねてみる。マッシュは少し迷ったふうではあったが、起き上がりあぐらをかいてから口を開いた。

「なんか、ああいうふうに髪を触らせるのって、あまりよくないんじゃないかと思ってさ」

 フィガロにおいては国王の髪は神聖なものとして扱われ、職務上許された者以外が触れることはない。前代までは王専属の髪結いも存在していた。

 その意識は城内に根強く、現在は専任の従事者こそ置いていないものの、式典の際などは侍従の中から選ばれた者がエドガーの髪を結うことになっている。

「うん、それももっともだ。俺らのとこではそういうしきたりだからな」

 仮に今日のことを、例えば神官長に話したとすれば、あまりいい顔はされないのだろう。

「でも、彼女たちの――仲間たちの前では、そういうことを意識せずにいたいとも思う」

 一つの目的の前には平等な仲間であり、また自身としてもそのように見られたい。そんな思いがあるのも事実だった。

 マッシュの表情をうかがってみる。なぜか先ほどよりも神妙になっているように見えた。エドガーは軽く咳払いし、できるだけ明るく聞こえるよう声の調子を上げて続けた。

「とまあ、そういう理由もあるが……一番はなにより、彼女たちの笑顔だな。なんだって応えてあげたくなってしまうんだ――あの輝きはどんな宝石でさえ足元にも及ばないだろう」

「はあ……そう」

 エドガーの女性賛美に苦笑する、いつもの弟の表情が戻ってきた。どこか呆れたように笑われるのは不本意ではあるが、今は安堵の方が勝った。

「まあ、兄貴がいいならなんでもいいんだ。俺は」

 殊勝なことを言っているわりに声にはまだ含みがある。一体何を隠しているのか、とエドガーは軽くため息をついた。

「で、本当のところは?」

「え?」

「他にも言いたいことがあるんじゃないのか」

 じっと目を見つめながら促した。マッシュはためらったが、しばらくののち観念したように目を伏せた。

「……あまり他の人に触らせたくない」

 巨体を小さくしてぼそぼそ言うそのさまに、何か湧き上がる感情がある。それは、少女たちの愛らしさに対して抱くものとは全く異なる性質を持っているように思える。

 しかし確実に、共通している部分もあった。

「お前には、髪だけじゃなくてもっと多くのことを許してるつもりなんだけどな」

 その情感は、自然とエドガーの目元をゆるませる。唇が勝手に笑みをかたどった。

「それじゃ足りないか」

 マッシュの喉の陰影が、エドガーの目にも明らかに上下した。ベッドから降りてエドガーの背後に立ったマッシュは、高い位置で髪を留めるリボンにそっと触れた。

「これ、やっぱり今ほどいちまったらだめかな」

「もうしばらくこのままだって言っただろ」

 両肩に大きな手が置かれる。身をかがめたマッシュの吐息がかすかにうなじをかすめた。

「じゃあ……『しばらく』の後は?」

 耳に囁かれた言葉に、エドガーはほくそ笑みながら、この距離でなければ届かない声で返した。

「好きにしろ」