このお話は、Twitterで活動されている@9_kbut さまのイラスト(以下リンク先の4枚目)をモチーフに書かせていただいたものです。まずはぜひ、こちらをご覧くださいませ…!
※小説を書かせていただくことおよび、書いたものの当サイトへのアップについてお許しをいただき、掲載しております
世界が一変したあの日から、船の往来は激減していた。とはいえ、交通や物流の要衝であるこの港町には今も各所から人が集う。然るに、ここでなら仲間の誰か一人にでも会えるかもしれない。そんな希望を抱いていたのは事実だ。
しかしいざ蓋を開けてみると、大切な仲間と弟との再会は少しばかり困った形で訪れた。
安宿の椅子に体を預け、エドガーはため息をついた。今身に着けているすすけた色の衣装を見下ろす。もしかすると、自分は変装が下手なのではないかと疑い始めていた。
セリスには一発で正体を見破られた。弟も、「ジェフ」が兄であるという確信しか持っていないようだった。
再会自体は僥倖だった。しかしふたり揃って、今は行方不明ということになっているフィガロ王の名を大声で連呼するものだから、目的を持って「ジェフ」として動いているエドガーとしては内心どうしたものかと途方にくれたのだった。
幸い、このようすを目の当たりにした「部下」の盗賊たちは、ただ純粋に困惑していた。付き従う「ボス」が自分たちを牢に閉じ込めた憎き王ではないか、その疑念が向けられることはなかった。ここで彼らに正体が割れてしまってはすべてが水の泡だ。
その後、入り組んだ港町の路地裏をさんざん歩き回って、二人をやっと撒いた。と思っていたが詰めが甘かった。
不覚にも、いつの間にかマッシュがひとりで後を尾けてきていたらしいことに気が付かなかったのだ。ようやく察知したときには遅かった。今夜泊まる宿の部屋の前までたどり着き、扉を開けるや否や、半ば押し込められる形で閉じ込められた。
そして今、このこぢんまりとした一室に弟とふたりきりだ。
退出しようにも、ドアの前に腕を組んで立ちふさがる巨体のせいでそれもかなわない。彼は、「ジェフ」がその正体を認めない限りはこの部屋から出してやらないと言う。解放されるまでもう少し時間がかかりそうだった。
エドガーはもう一度大きく息をついて、小さなテーブルの上、市場で気まぐれに買ってきた麦酒の瓶に手を伸ばした。瓶は王冠で蓋がされている。短剣を差し込み、てこのようにして外した。
そのまま瓶の口からじかに酒をあおる。すっかりぬるくなってしまった炭酸が、この酒特有の苦味を不快な感じに喉にまとわりつかせる。エドガーは顔をしかめた。
「飲むかい」
瓶の中身にすっかり興味を失ったエドガーは、瓶をマッシュに差し出してみた。彼は軽く首を振った。
「いや、いい。兄貴が飲めよ」
「おれはお前の兄貴じゃない……何度言ったらわかる」
「でも、俺には兄貴にしか見えないんだよ」
「他人の空似だ」
「こんなに似てる他人がいてたまるもんか」
「世の中には自分とそっくりな人間が三人はいるって話、聞いたことあるか」
「……見た目だけじゃない、声だって兄貴だ」
変装とはなにも、外見の変化だけをもって別人を装うとは限らない。酒でもしこたま飲んで喉を潰しておくべきだったかもしれないとエドガーは若干後悔した。
弟は本当にこのまま居座る気なのだろうか。ぼんやり浮かんだ疑問は、すぐに諦めのような確信に変わった。マッシュはきっと意思を曲げないだろう。
「おい」
これで今夜三度目となるため息まじりに、エドガーは呼びかけた。
「そんなところにずっと突っ立ってても仕方ないだろ。座ったらどうだ」
ベッドの方を指さす。椅子は、今エドガーが座っている一脚しかなかった。
「え……」
「心配しなくても、いまさら逃げやしないさ」
エドガーは短く笑い、再度瓶を傾けた。
マッシュはなおも扉の前から退かなかった。しかし「ジェフ」の言葉を信用したのか、やがてためらいつつも寝台へと向かい、その端に腰を下ろした。
そのまま二人とも黙っていた。ややあって、うつむき気味に膝の上で両手を組んでいたマッシュが切り出した。
「なあ、兄貴……どんな事情があるのか、俺にはまだよくわからないよ」
そこでまた少し間が空いた。
マッシュは意を決したように顔を上げ、エドガーを真剣な表情で見つめてきた。
「でも、今ここには俺たち二人だけだ。だからさ、もう――」
最後まで聞かず、半ば衝動的にエドガーは立ち上がった。椅子の脚が床をひっかいて耳障りな音を立てた。
足早に詰め寄りたいのを抑え、あえてゆっくりな歩調で寝台へと歩み寄る。一歩ごとに、ブーツの重みを受けた床板がきしんだ。
座ったまま黙りこんでいるマッシュの正面にたどり着き、見下ろす。困惑の視線が見上げてきた。
「いいかげんしつこいぞ」
吐き捨てて、マッシュの肩口を強く押した。予想外にあっけなく倒れ込んだ弟に覆いかぶさるようにして、エドガーはベッドに乗り上げる。大男二人が乗ることを想定していない粗末なベッドが悲鳴をあげた。
「なに、するんだよ」
マッシュが低くうめいた。険のある、怒りがにじむ声は獣の唸りを思わせた。
衝動的な行動の理由を、エドガーは自分の中でもうまく整理できずにいた。
先ほどマッシュが途中まで言っていたことも、もっともだった。この密室でなら「ジェフ」としてふるまう必要もないと思えた。事情を話せば弟なら全面的に協力してくれるはずであるし、実際心はその方向に傾き始めていた。
しかしそれが果たして最善なのか。そう考えたときに、今も砂の闇にとらわれた城、そして臣下たちのことが頭をよぎる。
ひとつのささいな失敗も許されないのだ。そのリスクをはらむ行動は避けねばならなかった。その強迫観念と、マッシュに打ち明けたい感情の二律背反は、強い苛立ちを生む。
エドガーはベッドの上に両手をついた。マッシュを洗いざらしのシーツに縫い付けて、逃げ場をなくす。
「なあ、どうすればお前は黙るんだ?」
片手を彼の頬に這わせた。かすかに震えた指先で、かさついた下唇をなぞる。マッシュの瞳に濃い当惑の色を認め、腹いせが成功したことによる理不尽な満足感を得た。唇が笑みに歪んだ。
「おれはあと何回お前の口を塞げばいい?」
親指の先が、マッシュの結ばれた唇を割る。
「いいぜ、何回だって」
その時ぽつり、と発せられた言葉は想定の外にあった。エドガーは思わず目を眇める。
マッシュは、頬に添えられた兄の手を自分の手のひらで包み、強く握った。
「俺も、何度でも呼ぶから。兄貴が俺を呼んでくれるまで」
エドガーは鼻で笑った。皮肉の一つでも言ってやろうかと思った。
しかしどういうわけか、いつもならいくらでも流暢に出せる言葉が今はまったく浮かばない。
そして唐突に、ああ、と悟った。自分がどうあがいても変装の名手にはなれないであろうことを。
巧みな変装の条件は、きっと、元の外見の痕跡を残さない技術でも、声をがらりと変えてしまうことでもない。必要なのは、何があっても――たとえば愛する者を前にしたとしても、感情のゆらぎを最後まで隠し通せる心だ。
国王たる自分はそれを持っているものと思い込んでいた。実際、つい先ほどまではそのようにふるまえていたのだ。そうして着けていたはずの仮面が、今この瞬間瓦解してしまった。
自分が今どんなにぶざまな素顔を晒していることか。想像して、エドガーは自嘲に口の端を持ち上げようとした。
そんなエドガーを見上げていたマッシュの瞳が、一瞬、少し驚いたように揺れた。
ほどなくして、大空も、海原さえも包含するような青が柔らかく細められていった。
「……もう、いいだろ? 兄貴」
――ああ、お前の勝ちだよ、マッシュ。
ジェフの「変装」はもうすっかり解かれてしまった。しかし認めるのは癪だった。
言葉にする代わりに、身をかがめて唇どうしを触れ合わせた。今や、抑えきれない微笑がうるさいマッシュの口を塞ぐために。