冬、とある日常

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「さようなら、マッシュ先生!」

「おう、気をつけてな。また来週」

「押忍!」

 稽古を終えた少年少女たちが、武道着のまま道場から駆け出していく。その背中をマッシュは微笑ましく眺めていた。

 

 中心街から少し離れたところにあるこの道場は、地域に根差し長年の伝統を誇っている。今は、特に都市部では、ビルの一室を借りて経営している道場も多い。そんな中マッシュが指導員を務めているここは、めずらしく独立した土地と、規模は小さいながらも立派な建屋を持っていた。

 もともと、マッシュはここで教えを乞う身だった。それが今は、師匠――道場主のダンカンから声をかけられ、こうして子どもたちに武道を教える立場になったのだった。

「さよなら、マッシュ先生。押忍!」

「押忍!」

 十二、三歳くらいの少年が二人、マッシュにあいさつをしてきた。マッシュは笑って手を振りそれに応える。

 そこへ、奥の更衣室から、マッシュの兄弟子が道着の帯を直しながら現れた。その姿を認めた少年二人は楽しそうに声を上げる。

「あ、バルガスだ」

「じゃあな、バルガス!」

 一回り以上も年下の子どもに、よく言えば親し気に、悪く言えばなれなれしく話しかけられたバルガスの眉間にひびが入る。

「おい、何度言ったらわかる。呼び捨てにするな。師匠を敬えと教わらなかったのかお前らは」

「だってオレたちの師匠はマッシュ先生だもん」

「バルガスとは遊んだことはあるけど、教わったことはないじゃん」

 へりくつをこねる子どもに、バルガスは鋭く舌打ちし、手を振って追い払うようなしぐさをした。

「さっさと出てけ、ガキども。次のクラスが始まる」

「はーい」

 けらけらと笑い合う少年たちの声が聞こえなくなってから、バルガスはマッシュを横目で軽く睨んだ。

「お前がもっとちゃんと指導すべきじゃないのか」

「何回か注意してはいるんですが、なかなか」

 面目ない気分で、マッシュは頭をかいた。

 バルガスから直接聞いたわけではなく、その父親のダンカンから聞いた話だが、あの二人の少年は、幼少からずっとダンカン親子の近所に住んでいるのだという。バルガスは荒っぽいが、面倒見の良い一面もある。だからあの少年たちにとっては、バルガスはいつまで経っても「近所のお兄さん」という認識なのだろう。

 さらに苦言を呈さないと気が済まない、と語るバルガスの表情を目の当たりにしたマッシュは、そそくさと自分の荷物をまとめた。これ以上話を長引かせては、バルガスにも自分にも都合が悪い。兄弟子はこれから成人クラスの指導があるのだ。

「じゃあ、俺もこれで失礼します」

「また兄貴のお迎えか?」

「ええ、まあ」

 どいつもこいつも、とうんざりした表情のバルガスにマッシュは苦笑いで応え、道場を後にした。

 

 外に出たとたん、容赦なく切りつけてくるような冬の風がマッシュを襲う。その瞬間、今夜の夕食のメニューは決定した。

 近くのスーパーで食材を買ってから、一度自宅――兄エドガーと同居しているマンションの一室へと帰宅した。

 大量の野菜を食べやすい大きさに切り、豆腐は水分を切って、春雨は水でもどしておく。鍋物だけでは物足りないような気がして、冷蔵庫に転がっていた食材でつまみになりそうなものも二品ほど作っておいた。

 それが済んだら、だいたいちょうどよい頃合いになる。壁の時計を見て、マッシュは再びコートを羽織り外へ出た。

 

 自宅から徒歩でだいたい十五分、駅前の商店街の一角に兄の仕事場はあった。

 老舗の時計店「フィガロ時計店」の看板を父から受け継いだ兄は、時計技師をして生計を立てている。

 一見、地域の小さな時計店だが、腕時計や家庭の壁掛け時計ばかりを相手にするわけではない。時には、公園などにある時計塔の点検や博物館所蔵の時計のレプリカの制作などといった仕事も請け負っている。

 閉店時間を過ぎてはいるが灯りが付いたままの店内に入ると、カウンターの向こうで帳簿をめくっていたエドガーが顔を上げて微笑んだ。

「おや、もうそんな時間か」

「お疲れ。今日は寒いから夕飯は鍋にしたよ」

「いいな。すぐ支度する、少し待っててくれ」

 その矢先、再度店のドアが開いて来客を告げるベルの音が響いた。マッシュとエドガーは同時にその方向を振り向く。そして、入ってきた人物の顔を見たとたん、エドガーはため息をついた。

「ロック、もう店じまいだ。明日にしてくれ」

「そんなこと言わずにさあ。お、マッシュお疲れさん」

 マッシュの顔を見て軽く手を挙げたロックは、カウンターへと迷いなく歩み寄った。そしてポケットから、派手ではないものの高級さがうかがえる腕時計を取り出してカウンターの上に置いた。それを一瞥したエドガーは目を眇めた。

「ここは質屋じゃないぞ」

「お前は俺をなんだと思ってんだよ……バナンさんの時計だよ、電池が切れちまってさ」

「バナンさんって、ロックのバイト先の上司だよな。えっと――」

 思い出そうとしているマッシュにかぶせるようにして、ロックは言った。

「リターナー、な」

 ロックは発掘調査のアルバイトをしているが、その調査団のリーダーを務めているのが高名な考古学者のバナンだ。

 調査団は著名な学者の集まりらしく、その団体の正式名称は長く仰々しい。マッシュは何度聞いても覚えられずにいる。ただ、通称は「リターナー」といって、ロックもそのように呼ぶのを好んでいるようだった。「先人たちの遺物を現代によみがえらせる」ことを理念としているためにそんな愛称になっているのだと、いつだったかロックが熱っぽく語っていた。

 ロックは再度エドガーに向き直り、拝むように両手を合わせた。

「バナンさんには世話になってるからさ、速攻で対応してくれるツテがあるって言って預かってきたんだ。だから頼む」

「安請け合いのツケをこっちに回すな」

 言いつつも、エドガーは時計を受け取り、カウンターの向こうにある作業机へと向かった。

「悪いな、マッシュ。少し遅くなる」

「いいよ別に。鍋の準備ももう済ませてあるし」

 兄弟の会話に、耳ざといロックが割り込んできた。

「お、今日は鍋にすんのか。締めは雑炊がいいな」

「どうしてお前は当然のようについてこようとしてるんだ?」

 さっそく作業に取り掛かり始めたエドガーの呆れ声が飛んでくる。ロックはこともなげに軽く肩をすくめてみせた。

「マッシュのメシ美味いからさあ。いいじゃん、今に始まったことじゃないんだし。酒は俺が奢るから」

 エドガーは再度深くため息をついた。

 しかし、その横顔はほんのわずかに笑っている。自分にだけわかるようなその微細な表情の変化に、マッシュは思わず自分の口元も緩んでいくのを感じた。