波間のふたり

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 思えば、兄は昔から何かと「改造」をするのが好きだった。

 機械いじりを覚えたてのころには、マッシュとエドガー共用の部屋にあった振り子時計に何か細工を加えようとして、結局壊してしまった。その時計は父王の何世代も前から大事にされてきたものだった。ばあやから説教を受け、父からは苦笑いされていた幼いエドガーの、しゅんと丸まった背中をマッシュは今でもよく覚えている。

 それに、部屋もよく「改造」の対象になっていた。父からもらった大きな世界地図を壁に掛けたり、二人で読んだおとぎの国の冒険譚に影響を受けて、物語の中に出てくる国の地図や架空の国旗なんかを一緒に作って、そこらじゅうにべたべたと張り付けていたこともあった。

 部屋が別々になってからも、その傾向は変わらなかった。

 マッシュは自分の部屋を飾ることに興味がなかったが、エドガーは、機械の図面や絵画、そして世界地図――そういったものを壁に掛け、気分やその時の関心によって飾るものを変えていた。時には、机などの家具やベッドの位置まで変えていたことすらあった。

 

 エドガーの私室で晩酌に付き合いながら、マッシュはそんなことを思い出していた。きっかけはついさっきエドガーに言われたひとことだ。

「このあいだ、部屋を少しだけ模様替えしたんだ。どこを変えたかわかるか?」

 酒で血色の良くなった頬を緩めて、エドガーは楽しげに問いかけてきたのだった。

 首を傾げ、マッシュはざっと部屋全体を見回してみる。

 まず目に入ったのは、壁に張ってある何枚かの設計図だった。書き込みだらけで、しかも張り付けた状態のまま随時書き足しているのか、若干壁にインクが垂れている。おそらく構想中の機械の設計図だろう。

 それだけでなく、明け方の砂漠を描いた額縁入りの風景画や、かつてともに旅をした仲間から送られてきた絵はがきも数枚飾られていた。ただ、これらはマッシュにとって見慣れたものだった。

 窓に引かれたカーテンや、部屋の奥にあるベッドにも目を向けてみる。いずれも特に変わったようすはない。今マッシュとエドガーが掛けているソファも、二人の間にあるローテーブルも、おなじみのもので配置すら変わっていない。壁紙もカーペットも、いつもと同じに見えた。

 マッシュがこの部屋に来るのは久々ではない。むしろ頻繁に足を運んでいるほうだった。なので、どこかが変わっていれば少なくとも違和感がありそうなものだ。しかしマッシュの目に留まったものは特になかった。

「うーん……額縁の絵、変えた?」

 腕を組みながら、当てずっぽうで言ってみる。エドガーは軽く首を横に振った。

「違うな」

「じゃあ、設計図が変わったか増えた」

「仮にそうだとしても、それは模様替えとは言わないかな」

「そういうもんなのか?」

「少なくとも俺にとっては」

 マッシュはもう一度、今度は先ほどより注意深く辺りを観察してみた。しかしやはり、どこにも変わったようすは見られない。マッシュは両の手のひらを軽く掲げて白旗を上げた。

「だめだ、全然わからない」

「じゃあ特別にヒントをやろう」

 言って、エドガーはソファから立ち上がった。その足はまっすぐに部屋の奥のベッドへと向かっていく。室内履きを脱いで寝具の上に乗り上げたエドガーは、仰向けになって寝転がった。

「こうしてみればわかるかもしれないぞ」

 ベッドから声を張り上げるエドガーを見て、マッシュの脳裏には、もしかして酔っているのだろうかという考えが一瞬よぎった。しかし、晩酌にたしなむくらいの量で酔うほど兄は酒に弱くない。

 よくわからないながら、マッシュも立ち上がった。ベッドに歩み寄り兄の隣に横向きで寝てみた。エドガーは横目でマッシュを見ると、少し眉をしかめた。

「こっちじゃない、仰向けになって上を見てみろ」

 目線での誘導と指示に従って、マッシュは体を転がして上向きに寝た。

「あ……」

 その瞬間、エドガーの問いへの正解はこれだと確信した。

 今二人が横たわっているこの寝台には、四隅に木製の支柱が伸びていて、その上を同じ素材で作られた天蓋が覆っている。仰向けになった時にはその天蓋の裏が見える。いつもなら、そこは、単に木材がそのまま露出しているだけの場所だったはずだ。

 それが今は、どことなく異国情緒が漂う布地で装飾されていた。天蓋全体を覆うほどの大きさは無いものの、上向きで寝た時に自然と視線が留まる位置に掲げられている。

 その織物は、淡い群青色を基調にしつつ、ところどころ白抜きされたような紋様があしらわれている。緩やかにうねるその柄は、青の背景も相まって、寄せては返し白いしぶきを上げる波を思わせた。

 思わず見入っていたマッシュの隣から、満足そうなエドガーの声が聞こえてきた。

「いいだろう」

「うん。なんだろ、このへんじゃあまり見ない感じの色と柄だな」

 マッシュの素直な感想に、エドガーはやや声を弾ませながら補足した。

「ドマの伝統的な染め物なんだ。あの辺りに自生する植物で染め上げているらしい。このあいだ、フィガロへの輸出についてカイエンから打診を受けてね、試しにいくつか送ってもらった。そのうちの一枚が気に入ったんで買い上げたんだよ」

 白い波を見上げながら、エドガーは今度は独り言のように呟いた。

「寝る前……灯りを落とす前に眺めてると落ち着くんだ。どんなに気が立ってても、妙に目が冴えていても、不思議と眠くなってくる」

 それは日々執務に追われているエドガーにとっては良いことだし、自身にとっても喜ばしいことであるはずだった。しかし、マッシュとしてはどうも面白くなかった。

 その原因はすでにわかっていた。自分こそがエドガーの最も安らげる場所でありたいし、実際にそうであるとひそかに自負していたからこそ、こうして心がざわつくのだ。それはもしかすると自惚れなのかもしれない。それに安らげる場所が多いに越したことはない。

 ただ、そのことを頭で理解するのと、心の底から納得できるかどうかはまた別の話だった。

「まあ、きれいだし、落ち着くといえばそうだし、ドマの名産品が色んなところに広まるのは嬉しいことだよな」

 言葉の内容自体は本心なのだが、言った自分の声は、湧き上がっていた苦々しい感情をまったく取り繕えていなかった。しまった、と思った時には遅かった。

 マッシュの声の余韻が完全に消えてから、エドガーは笑いをこらえるように声を震わせた。

「まさかと思うが、お前――」

「違う」

 決定的なひと突きをくらう前に自己弁護の体勢に入るのは、みずから認めているようなものだ。しかしエドガーの言おうとしていることが簡単に予測できて、反射的にさえぎってしまった。

「まだ何も言ってないぞ」

「言われなくてもわかるよ、そんなニヤニヤして……」

 ほんのわずかな恨めしさを込めてじっとり視線を送ると、視線を返してきたエドガーはますます相好を崩した。

「まさか嫉妬してるんじゃないだろうな。この場合だと誰だ……?」

「ああ、だから違うってば。全然そういうのじゃないんだって」

 頬に熱が集まってくるのを抑えられない。頭を乱雑にかいて反論すればするほど、エドガーの言葉が真実であることの裏付けになってしまっていた。相変わらず楽しそうに目を細めながら、エドガーは寝返りを打つようにして体をマッシュのほうに向けてきた。

「いいじゃないか。この光景を見ることができるのは、俺とお前だけなんだから」

「――え?」

 言われた言葉の意味を読み取る前に、エドガーはわざとらしいため息をついて続けた。

「それでも気に入らないなら、仕方ない。このベッドではこれから俺一人で寝ることにしよう」

 その言葉が終わらないうちに、マッシュは覆いかぶさるようにしてエドガーに抱き着いていた。臆面もなく子どもじみたわがままを言いながら。

「いやだ」

 不機嫌そのままにこぼれたひとことの後に、エドガーが小さく声を立てて笑った。マッシュの背中にそっと両手が回される。

「……今夜は冷えるな」

 アルコール特有の香りと温度を含んだ呼気がマッシュの頬をくすぐった。

 

 寝台は、そこに身を委ねた者を、うつつから夢路をたどる船旅へと優しくいざなう。

 天蓋に広がっている緩やかな波は、シーツの海で抱き合ってまどろむ二人を静かに見守っていた。