「セッツァー、ちょっといいかい」
ファルコン号の機関室を後にして廊下を歩いていたところを呼び止められる。振り向いたセッツァーの眼前に、エドガーが、上質な包装紙に包まれた一輪の白いバラを差し出してきた。
セッツァーは自分ができる限りのしかめ面を作った。
「あいにく男から花を受け取る趣味はねえ」
「誰がきみにやると言った?」
冷ややかな声と視線でフィガロ王が応える。渡そうとしておきながらお前宛てではないとはどういう了見だろう。渋面を崩さないまま、セッツァーは無言でエドガーを睨み説明を求めた。
「きみの都合のいい時でいい、できればこれを供えてほしいんだ。その……」
エドガーはそこでいったん言いよどむ。だいたいにおいてはっきりものを言う彼にしてはめずらしいことだった。
「『彼女』が眠っている墓に」
一瞬、息が止まった。動揺を悟られないように、セッツァーは声の調子に細心の注意を払いながら問うた。
「よく知ってるな?」
「前にファルコン号を復活させるのに同行しただろ。その時、墓標に日付が刻まれているのを見たんだよ」
「はあ、記憶力のいいことで」
今日は「彼女」の――ダリルの命日だった。しかしそれは便宜上のものであって、墓標に刻んであるのは、あくまでセッツァーが大破したファルコン号を発見した時の日付だ。真に彼女が没した日を確かめるすべはもうない。
ともかく不可解なのは、なぜエドガーがその日付を気にかけているのかということだった。訳知り顔で踏み込まれるのは不愉快極まりなかった。突き放すようにセッツァーは言う。
「しかしなんでまた。てめえにはこんなことする義理は無いだろ」
「まあ、それももっともだ」
エドガーは否定せず、むしろ肯定しながら肩をすくめた。
「ただ、あの場所できみの話を聞いていた時、何と言えばいいか――」
そこでまた、エドガーは言葉を探す。軽く伏せられたまつげが青い目を翳らせていた。
「――彼女のありかたがまぶしいと思った。それで、何らかの形で敬意を示したいと思った。そういう意図での花だが、気に障ったようなら謝るよ」
「敬意、ねえ」
セッツァーはエドガーの手から花を取り上げた。幾重にも重なる、繊細な純白の花弁が目を眩ませるほどだった。さして花に思い入れのないセッツァーでも、そこらの花屋ではめったに出会えないであろう一輪であることはわかった。
「一応言っとくが、あいつは花言葉なんてひとつも知らないと思うぜ」
その話題が出ると予想していなかったのだろう、エドガーは意外そうに眉を上げた。
「でもきみは詳しいようだね」
「女を落とすためには使えるもんは何でも使う。お前と同じだ」
「嫌なことを言うなあ」
苦笑いしながら、エドガーは自虐的に呟いた。
「伝わらなくてもいいんだ、しょせんは部外者の自己満足に過ぎないのだから」
小難しい物言いをしているが、セッツァーからすれば、今目の前にいる王たる男は拗ねている子どものようにしか見えなかった。大きく息をついて、厭味ったらしく言ってやる。
「めんどくせえやつだな。『うらやましい、俺も混ざりたかった、俺の腕なら誰にも負けない飛空艇を造れたのに』って素直に言やいいじゃねえか」
それは、エドガーの立場上実現は不可能で、きっと希望を口にするのさえはばかられるようなことだ。それをわかったうえで指摘した。
案の定、エドガーは苦虫を嚙み潰したように顔を歪めた。しかし口角は上がっていて、いくつもの感情が交錯した面持ちでセッツァーを見つめていた。いつもの食えない穏やかさはそこにはなく、苛立ちを取り繕うのを忘れたかのように彼は吐き捨てた。
「きみは本当に、嫌なことを言う」
しかし軽く咳払いをした次の瞬間には、表情は冷静なものに戻っていた。
「とにかく、私の意向は伝えた。その花を最終的にどうするかはきみに任せるよ。簡単だが防腐処理がされているからすぐ枯れることもない」
それじゃあまた後で、と言い残しエドガーは去っていった。
その場に残されたセッツァーもまた、奥の小部屋へと引っ込んだ。かつての艇長室で、今はセッツァーが引き継いでいた。
ここには、仲間の誰にも触れさせない自分専用の小さなワインセラーを置いている。その中からダリルが好んで飲んでいた銘柄の瓶を取り出し、グラスを二脚用意した。
二つあるアームチェアのうちの一つに掛け、あいだを隔てる小さなテーブルにグラスを並べる。向かいのグラスのそばには、エドガーから受け取った白いバラを添えた。
ダリルは花言葉などひとつも知らなかったに違いなかった。それどころか、花の種類にも疎かっただろう。ずっと空ばかり追いかけて、地上のことにはあまり注意を払っていないようなところがあった。そしてそれはきっと今も変わらないとセッツァーは思っている。
自分のグラスにワインを注いでから、空席側にあるグラスも同様に満たした。旧友との語らいに酒は欠かせないものだ。
「そっちはどうだ? ダリル」
機体のみならず自らの肉体からさえも自由になって、風を切り雲を突き抜け、ついに届かなかった幾千もの星をその瞳に映しているのだろうか。せめてそうであってほしいというのがセッツァーの願いだった。
それでも、この日くらいは、こちらの誘いに乗ってくれてもいいのではないか――そんなことを思うのも事実だった。
「たまにはこっちも見物しに来いよ。色々とままならんことばかりだが、まァそう悪くもねえんだ。なによりファルコンをまた泳がせてやれたしな」
セッツァーは自分のグラスを高く掲げて酒を呷った。重層的な風味が舌の上で少しずつほどけていき、一番最後に残された渋みがいつまでも後を引くようだった。
正直なところセッツァーの好みからは遠いが、友は、「この後味がいいんじゃない」とからから笑ってあっという間に杯を空けていたものだ。
懐かしい思い出にくすぐられ、小さな笑いが漏れた。呼応して、白いバラの傍らに置かれたグラスの中、葡萄酒がさざめくかのように揺れた気がした。