ボスとおかしら

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 故郷の田舎町を飛び出してはるばるニケアまでやってきたのは金のためだ。港町には荷下ろしや船員など、金払いの良い仕事があると聞いたのだ。

 しかし特に力自慢というわけでもなかった俺は、他の屈強な男たちの前にはお払い箱だった。結局、今はしがない左官工として毎日壁に土を塗りたくっている。

 でもこんな俺にだって楽しみはある。

 恥ずかしい話だが「女神」と俺の中では呼んでいる。行きつけの酒場で働いている、俺よりいくつか年下の女の子のことだ。

 緩やかにカールした豊かな黒髪と、同じ色をした大きな瞳。健康的にふくりと丸い頬、そしてぽってり赤い小さな唇が、昔故郷の教会で見た絵に描かれていた女性の姿と重なった。彼女を一目見たその日から俺の中で彼女は「女神」となった。

 どんなに疲れていても、店を訪れた俺を見て微笑むあの子の顔を見るだけで、まだなんとか頑張れそうな気になってくるのだった。

 

 そんなわけで今夜も仕事帰りに彼女に会いに来たのだが、どうも今日はついてない日らしい。

 カウンター席の向かって左端が俺の定位置だ。そこに座って反対側の端をじっとり眺める。どんよりとした俺の視線の先には、愛らしい女神の横顔と、さっきからその隣に陣取って彼女にべらべら話かけているくすんだ髪色の優男がいた。

 優男と言ったが、そこそこガタイはいい。背丈は悔しいが俺より高いだろう。でもなんとなく気取ったような雰囲気がいかつさやがさつな印象を感じさせないので、結果「優男」というやわな表現に落ち着くのだった。

「あいつは?」

 カウンターの向こうで酒を作っている店主に聞いてみる。すっかり顔なじみの親父さんはちょっと困ったように笑った。

「盗賊一味のボスだとよ。向こうのテーブル席でどんちゃんやってるのが子分だ」

 店主が顎で指した先を振り返ってみると、赤バンダナを頭に巻いた男が、ジェフの親分、と叫んで手を振っているところだった。それを優男は適当に受け流している。やつはジェフという名らしい。

 なんでよりによって今日来るんだ――心の中で悪態をつく。今日は水曜日、いつもなら酒場は比較的空いているから彼女と一秒でも長く喋るチャンスだった。それを楽しみにわざわざやってきたというのに。

 いつもより苦く感じる酒をちびちびやっていると、親父さんが小皿を俺の前に置いた。好物の野菜のピクルスが乗っている。

「騒がしくて迷惑かけてるからね」

 俺がこの店に通うのは、こういう親父さんの気の良さもある。あの子だけを目当てに来てるわけじゃないのだ、決して。

「景気よく飲んでるのは店としちゃありがたいがな」

「騒ぎさえ起こさなきゃね」と俺が付け加えると店主は軽くため息をついた。

「さっき大型船が寄港してたのを見たんだよ。海賊だって皆うわさしていてな。鉢合わせなきゃいいが」

 悪い予感に限ってよく当たるものだ。親父さんが呟いたまさにその瞬間、入口の方が騒がしくなった。

 重たいブーツの足音とともに潮の匂いが広がる。明らかに海賊といった風貌のごろつきたちがどやどやと店に入ってきた。

「ん? 混んでるな……」

 一番最後に入ってきたのは、春に咲く花のようなめずらしい髪色をした青年だった。

「どうします? おかしら」

 海賊の一人が青年に向かって声を張り上げた。「おかしら」と呼ばれた男は、ごろつきどもと比べて細身の体とやけに整った顔の持ち主で、外見だけならあまり海賊には似つかわしくない。しかし隙のない雰囲気がどこか近寄りがたさを感じさせて、彼が海賊一味を束ねているということに説得力を与えていた。

 その時、うるさく飲んでいた盗賊団の何人かが振り返った。青年を見てにやにや笑っている。

「聞いたか? おかしら、だってよ」

「酒よりジュースが似合いそうなおかしらさんだなあ」

「うちのボスとは違うぜ」

 隠すつもりのないからかいを聞いて、当然海賊たちも黙ってはいない。

「なんだと……!」

「てめェら、タダですむと思うなよ」

 いきり立つ海賊らに対して、盗賊たちはろれつの回らない何事かを返しては笑っている。相当酔っているみたいだ。

 そんなへべれけたちを呆れたように眺めながら、海賊の頭は腕を組んだ。

「おいお前ら、酔っぱらいの言うことだ。相手するな」

「でも、ファリスさん」

「お前だって酔うとあんな感じだぞ」

「え……ほ、本当っすか」

 そこへ、いつの間にか席から立っていた盗賊のボスが歩み寄っていった。

「なんの騒ぎだ?」

 盗賊と海賊、それぞれの長の視線が交差した瞬間、その場の空気が一気に張り詰めた。それはたぶん俺の気のせいじゃなくて、言い合いをしていたはずのそれぞれの部下も急に静まり返ってしまった。

 言葉もなく双方にらみ合う。それは時間にして数秒のことだったと思うが、体感としてはもっと長かった。

「あんたがこいつらの『ボス』かい?」

 先に沈黙を破ったのは、さっき「ファリス」と呼ばれていた青年だった。

「だったらどうする」

「見てたぜ、女にうつつを抜かしてだらしねえボスだな。部下の統率も取れないわけだ」

「気分を害したなら悪かった。レディを前にすると甘い言葉をかけずにはいられなくてね、つい夢中になっちまっていた」

「はっ……レディ、ねえ」

 海賊の頭領は短く笑い、何か含みがありそうに目を細めた。

「レディがみんな甘い言葉に弱いとでも思ってんのかい。だとしたら今に痛い目見るぜ」

「ほう、忠告ありがとう。胸に刻んでおくとしよう」

「忠告ついでにもう一つ――」青年は盗賊の親分を頭から爪先まで品定めするように眺めた。「あんた、もしかして落ちぶれた貴族かなんか?」

「なに?」

 口元に笑いを浮かべたままだが、どこか困惑しているようにも見える。そんな「ジェフ」を見、「ファリス」は笑みを深めた。

「気をつけたほうがいいよ。どんなに落ちても貴族は貴族、ご自分が思ってる以上の利用価値があるもんだ」

 正直、この男が「ジェフ」のどこを見てそんなことを言っているのかよくわからなかった。確かに雰囲気には独特のものがあるが、ぱっと見ただけでそいつの過去がわかるはずもない。

 本人も同じようなことを思ったりしているのだろうか。盗賊の親玉は「ファリス」の話を聞いているあいだ、顔に笑いを貼り付けながらも相手を見る視線は警戒するように鋭かった。

 しかしやがてその目つきも緩んでいく。ついには声を上げて笑い出した。

「いやはや、君の目には俺はそんなに高貴に映るのか。心配いただかなくても俺は生まれた時から正真正銘のあらくれものさ」

 にやにやと笑う盗賊は、よく見ると無精ひげの生えている顎をさすった。

「でも元貴族の盗賊ってのはいいな。これから使わせてもらうか。なあ、お前ら」

 水を向けられた盗賊団は緊張を解いて、弾けるようにまた騒ぎ出した。

「これでもっと女の子にもてやすぜ」

「よくわかんねえけど、よかったっすねボス!」

「まったく困っちまうな。君、礼を言うぜ」

「こいつ腹立つな……」

 感謝された海賊の頭は、実に嫌そうな顔をしながら苦々しく呟いていた。

 ぴりぴりした雰囲気がひとまず緩んだことで、ようやく俺は我に返った。

 すかさず「女神」へ視線を向けると、彼女はスツールに腰掛けたまま呆然と「ボス」と「おかしら」のほうを見つめていた。

 俺はすぐさま彼女のもとに駆け寄り、そっと名前を呼んだ。彼女は長いまつ毛を何回か瞬かせた後、やっと俺を見てくれた。

「……あら、こんばんは。来てくれてたのね」

「大丈夫? ぼうっとしてたようだけど」

「ええ、ごめんなさい。少し」

 急にこんなあらくれ者どもを前にしたら、そりゃびっくりもするだろう。

 大丈夫、あの二人が殴り合いを始めても、盗賊と海賊の大乱闘が始まっても、俺が守ってあげるから――そうカッコよく決めようとしたのだが、それを待たずに彼女の視線は再び二人へと向けられた。いや、よく見ると「ファリス」の方向へとまっすぐ注がれている。

 雲行きが怪しい。

「あの……」

 軌道修正を試みようとして声をかけた俺を、彼女は小さな囁きでさえぎった。

「ねえ」

「な、なに?」

 ぽっと染まった頬、夢を見ているようにとろんとした目。極めつけに小さな唇がうっとりとため息をついた。

「あの海賊の『おかしら』さんも、ステキね……」

 ああ、やっぱり今日はついてない。