双子の父が崩御し、マッシュが城を脱出した日のお話。これ単独でも、ひとつ前のお話とつながりのあるものとしても読めると思います。暗いというか、苦しいというか、つらい話になってしまいました…
城の屋上から望む景色は、夜と朝の境目の空気に包まれ、すべてが薄青く見えた。
コインを指で弾く音が静寂を震わせた。硬貨は兄の手の甲をめがけて落ちた。父の肖像が彫られた面が、上空の白い月のようにぼんやりと浮かびあがっている。
「表……か。どうやらお前の勝ちだ、マッシュ」
エドガーは手早くコインを回収し、懐へとしまった。
「どうする。本当にここを出るんだったら、なるべく急いだほうがいい」
自由が目前にある。それを望んでいたはずなのに、この苦い感情は何だろうか。強い困惑が邪魔をして発すべき言葉が見つからない。それでも、マッシュはなんとか頷いた。
エドガーは口元にほんの少しだけ笑みを浮かべた。そして、いいことを教えてあげようか、などとこの場に似つかわしくないいたずらっぽい声で囁いた。
「チョコボ舎は、このくらいの時間になると見張りが手薄になる瞬間がある。見張り番が、チョコボが朝飲む水を汲みに行くために、少しだけ持ち場を離れるんだ」
そこを見計らってチョコボを一頭連れて行ってはどうか、という提案だった。
「どうして――」
どうしてそんなことを知っているのか。戸惑うマッシュの問いに、エドガーは片目をつぶった。
「俺も、なんとかして城を抜け出す方法を考えてた時期があったんだ……さあ、もう本当に時間がないぞ」
言いながらも、エドガーはマッシュの手首をつかんで引き寄せ、よろめいた体を軽く抱きしめた。
そしてマッシュの前髪をかき上げ、額に軽くキスを落とす。まるで、寝る前によい夢を見られるまじないをかけるように。
「じゃあな、レネ」
そこからは、とにかく必死だった。
急いで荷物をまとめ、兄の言った通りのタイミングを見計らい、なんとかチョコボを連れ出すことができた。しかしいざ巨鳥の背にまたがったところで、どこへ向かえばいいのかがまったくわからないことに気が付いた。
北のナルシェの気候に対応できるような装備は持っていない。であるならば、城の者に見つかる可能性は高まるが、ひとまずサウスフィガロへ行くほかはなさそうだった。そこからどうにかして船に乗ることができれば国を脱出することができる。そう考えたマッシュは、走り始めていたチョコボを方向転換させ、町へ通じる洞窟へと急いだ。
洞窟の入口前に着いたところで、マッシュはチョコボから飛び降りた。大きな体躯のこの生き物を、狭く足場の悪い洞穴の中まで連れて行くことはできないのだ。そのためこの場所には、チョコボをつなぎ留めておくための無人の簡易小屋がある。後で城の係が巡回に来て引き取るしくみになっていた。
このチョコボを手掛かりとして、マッシュの足取りは辿られることになるだろう。しかしだからといって、不毛の砂漠に置き去りにするわけにもいかなかった。
丈夫な杭に手綱をしっかりとくくり付け、柔らかな黄色い羽毛を軽くくすぐってやる。
「元気でな」
呟いた声に何かを感じ取ったのだろうか。チョコボはつぶらな目でマッシュを見、わずかに首を傾げた。
ランタンを掲げながら、濡れて滑りやすくなっている岩場を慎重に踏みしめていく。
この洞窟を一人で歩くのは初めてだった。前回ここを訪れた時は父と兄と一緒だった。なんでもない話をしながらだったので、あっという間に出口までたどり着いた覚えがある。
しかし今は、いくら歩いても同じような岩の回廊が続く。このまま永遠に出口にたどり着かないようにすら錯覚した。
ようやくサウスフィガロ側に出たころには、昇りかけていた日はさらに高い位置まで来ていた。夏の太陽は、さっそくじりじりと照り気温を上げていく。人の気配はなかったが、マッシュは辺りを念入りに見回してから近くの林へと身を隠した。
木陰に入ってしまえば、太陽の光はさえぎられていくぶん涼しくなる。今まで張りつめていた気もわずかに緩む。マッシュは深く息を吐きながら地面に腰を落ち着け、木の幹にもたれた。
その時、遠くの方で、重厚感のある鐘の音が響いた。城のある方角からだった。
マッシュは首を傾げる。城では毎日礼拝堂の鐘が鳴らされるが、あれはもっと軽やかで、心が洗われるような音色だ。今の音とは似ても似つかない。
さっきの鐘の音はもっと物々しい。例えば、何か重大な報せをするための――
そこで、マッシュはようやく察した。あれは弔いの鐘だ。王の死を国民に報せるための鐘だったのだ。
そのことを認識したとたんに、全身の力が抜けた。そして次の瞬間、強い悔恨の念が濁流のように押し寄せてきた。
大好きだった父の弔いもせずにここまで来てしまったこと。無理やりにでも兄の手を取って一緒に逃げなかったこと。そして、重責を担うことになるエドガーの支えとなれるのは、おそらく自分だけだったにもかかわらず、それを放棄したこと。それらに対する後悔だった。
耐えきれず、マッシュはその場に突っ伏してむせび泣いた。本当は叫びたかったが、誰かに見つかることを恐れ、声をこらえて嗚咽した。そして、悲しいはずなのにどこか冷静にそんなことを気にしている自分の小賢しさが悔しくて、また涙があふれた。
早朝から汗ばむほどの夏の日だったが、全身に寒気がまとわりついて震えが止まらなかった。
だれかに、優しく抱きしめてもらいたかった。
そして、それを叶えてくれる手は――これ以上悪夢を見ないようにとまじないをかけてくれる兄は、ここにはいない。