17. ふたつがひとつの夢を見た

悪夢にうなされるエドガー。長くなったうえに暗いっ……けどマッシュがいるからきっと大丈夫。この17話の中では最も踏み込んだ話になってると思うので、お好みに合わなそうでしたらご無理なさらずです 

★このお話をもってマエドまつり全話更新終了です。お付き合いくださり本当にありがとうございました!

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「兄ちゃん?」

 少し舌足らずな声に、エドガーの意識は一気にその場に引き戻された。

 目を開けてまず飛び込んできたのは、いつもの朝食の風景だった。白いテーブルクロスの上、料理の皿と茶器が几帳面に配置されている。

 皿に乗っているのはマッシュの好物だ。半分に割ってこんがりと焼いた丸いパン。その上に葉野菜とベーコンを乗せて、てっぺんに落とし卵が鎮座している。仕上げに、レモンを思わせるあざやかな黄色の濃厚なソースがかかっていた。

 皿から視線を上げると、向かいに座っているマッシュが心配そうに眉を下げてこちらを見ていた。

「どうしたの、ぼうっとして」

「いや……」

 体に妙な浮遊感があった。しばらく、ここではないどこかに意識も体も持っていかれていたかのような変な感覚だった。

「白昼夢でも見てたの?」

 体があまり丈夫でなく室内にいる時間がエドガーより長い分、マッシュはよく本を読んでいる。先日十歳を迎えたばかり――必然的にエドガーもそうだ――だが、難しい本にも挑戦しているようで、たまにエドガーがよく知らない言葉を会話に持ち出すことがある。ただし、今マッシュが口にした言葉についてはエドガーも知っていた。

「ううん……なんだか、ここじゃない別の場所にいたような気がするんだけど」

 先ほどまで頭の中に浮かんでいた景色を思い出そうとするが、ひどくぼやけた輪郭しか思い出せない。それでも懸命に手繰り寄せていく。そうすると、かろうじて一つの場面にたどり着くことができた。

「そうだ……空を飛ぶ船」

「え?」

「船が空を飛んで……それを見送ってた。手を振りながら」

 マッシュは数回目を瞬かせると、おかしそうに笑った。

「それ、前に読んだ本の話じゃない。まだ寝ぼけてるんじゃないの」

 そうなのだろうか。しかしかすかな頭痛が邪魔をして、詳しいことがこれ以上思い出せない。エドガーはいったんそこからは離れることにして、ティーカップからお茶を一口飲んだ。

「あ……本と言えば」

 ふと思い出した、というようにマッシュが新たな話題を切り出す。

「このあいだ読んだんだけどね。昔は、双子が生まれたときは、先に生まれたほうが弟で後に生まれたほうが兄だって言われていたんだって。今と逆だよね」

 落とし卵にナイフを入れながらマッシュは言う。半熟の黄身がとろりと溢れて、白い皿に溜まりを作った。

「へえ、どうして?」

「後に生まれてくる方が、先にお母さんのお腹にいたことになるからってことらしいよ」

「はあ」

 わかるようなわからないような理屈だ。エドガーは曖昧な返事をする。

「だから、もし時代が違ってたら、もしかしたらぼくが『兄ちゃん』だったのかもしれないなあって思ったんだ」

 エドガーは、マッシュを「兄ちゃん」と呼びながらその後ろについていく自分の姿を想像してみる。あまりしっくりこず笑いが漏れた。

 それを目ざとく認めたマッシュは少し頬を膨らませたが、すぐに気を取り直したようすで、すまし顔に戻った。

「とにかく、その本を読んだ後いろいろ考えてたんだ。ぼくなりに」

 マッシュはナイフとフォークを器用に扱い、パンをいくつかの一口大に丁寧に切り分けていく。そのうちのひとつにたっぷりソースと黄身を絡める。それを口に運んだマッシュの頬はみるみるうちに幸せそうに綻んだ。

 そのさまにエドガーもつられて笑顔になる。急に空腹感を覚えて、自分もそろそろ食べ始めようとナイフとフォークを手に持った。

 小さな一口をゆっくり咀嚼し飲み込んだマッシュは、お茶で喉を潤し、一息ついてから続けた。

「そしたらね、また、ふと思った……ぼくの体が兄ちゃんより小さくて、丈夫じゃないのはなんでなんだろうって」

 純粋に疑問を呈する口ぶりで発せられた言葉に、ナイフを動かしていたエドガーの手が止まった。思わず顔を上げて弟を見る。

 唇についた卵の黄身を舌で舐めとっていたマッシュは、エドガーと視線が合うと、まだ口の端に濃い黄色を付けたまま微笑んだ。

「そもそも、元はひとつだったのが半分こになっちゃったから、今こうなってるのかもなあって」

「……何が言いたいんだ、マッシュ」

 エドガーはあえぐように呟く。声を発してはじめて、だんだんと呼吸が浅くなっていることに気づいた。

 語尾の震えを隠せなかった兄の声を受けて、マッシュは短く笑う。猫のように目が細められた。

「わかってるでしょう?」

 澄んだ声は礼拝堂の鐘の音を思わせる。軽やかな音色は耳にすっとなじんで、エドガーの全身に寒気を走らせた。

「ああ……でも、自分からは言えないよね」

 席を立ったマッシュは、テーブルを回り込んでエドガーの隣へとやって来た。少し身をかがめ、動けないエドガーの耳元に口を近づける。内緒話の声が間違いなく届くようにと、手が覆いを作った。

 これから紡がれるであろう言葉をエドガーは聞きたくなかった。早く席を立たねばと思ったが、射止められたように体が動かない。

「だったら、教えてあげる」

 囁きが頬に触れる。何の助けにもならないとわかっていたが、可能な限りこの場から逃れたくて、エドガーはきつく目を閉じた。

 

 実際に耳に流れ込んできたのは、甘く囁く少年の声ではなかった。

 

「兄貴!」

 強く肩を揺さぶられて、エドガーははっと目を開けた。

 しかし次の瞬間、激しい頭の痛みに襲われ、再度目を固く閉じ頭を抱えた。夢の中ではぼんやりと感じていた頭痛が、目覚めにより一気に実態を伴うものになったのかと思うほど、鮮烈な痛みだった。

 内側から叩かれているかのように側頭が拍動している。それは正しい呼吸の仕方をエドガーに忘れさせた。深さも長さもまちまちの、ひどくつたない息遣いしかできなくなっていた。エドガーには、うめきながら体を丸め、嵐が過ぎるのを待つことしかできない。

「兄貴、俺を見て」

 その時、吹き荒れる暴風の向こうから声が聞こえた気がした。すがる思いでその方向に手を伸ばす。空中をもがいた手は、すぐに温かい温度に包み込まれる。

「大丈夫だから」

 低い声は、言葉の内容を保証する響きを持っていた。その振動は少しずつエドガーの身に染みていき、先ほどの言葉が真実であるらしいことを教えていく。

 徐々に、嵐は遠ざかっていった。それまでに要したのは、実際には数分程度だったと思われるが、やけに長い時間が過ぎたように感じられた。

 ようやく身の回りの状況を冷静に認識できるようになってきたころに、エドガーは改めて目を開けた。

 ここは、城の朝食の風景とは真逆の、旅の途中で立ち寄った古びた宿の一室だった。エドガーが寝転がっていたのは、そこに備え付けられている特筆すべきことのないベッドだった。

 薄いカーテンが、窓からの月明りを阻みきれずに室内に通している。ぼやけた明かりは、隣にある空のベッドを静かに照らしていた。

 そして――エドガーはゆっくりと視線を手前に移動させる。

 痛みをこらえるように眉根を寄せながら、マッシュがこちらを見下ろしていた。彼の両手は、エドガーの手を包み込み強く握りしめていた。

「うなされていたか、俺は」

 尋ねた声はかすれていて、ほとんど囁きに近かった。

「かなりね。相当ひどい夢だったのか」

 渋い声が尋ね返してくる。エドガーはそれには答えず、無理に笑顔を作った。

「いや、もう大丈夫だ……悪かったな、こんな年にもなって悪夢にうなされるとは思わなかった」

「兄貴、俺の名前を呼んでた」

 独り言のようにマッシュは言う。

「俺が出てきた夢が、兄貴を苦しめたのか?」

「大丈夫。なんでもないんだ」

 エドガーは半ばいらだちを込めて繰り返した。早くこの話題から逃れたかった。弟の手から抜け出そうとするが、ぎりりと骨を締めるかのような力がそれを許さない。

「マッシュ――」

「言えよ」

 半ば、吼えるような声だった。沈む夜の静けさに浸っていた部屋を震わせたそれに、エドガーは身をすくませる。

「そうやって抱え込んで、ごまかして、何も言わないつもりか」

 怒りに震え、絞り出すような弟の言葉に対して何を返すべきなのか、エドガーにはわからなかった。

 マッシュは肩を上下させながら、黙り込んだエドガーを、しばらく睨むような鋭さで見つめていた。やがて、努めて自らを落ち着かせようとするように、目を閉じて深く息をついた。

 再びまぶたが上がる頃には、エドガーに注がれる視線はいくぶん和らいでいた。

「……なあ、少し、話そう。何か飲み物もらってくるから待ってて」

 

 時間的に宿の従業員もみな就寝していると思われたが、戻ってきたマッシュの手にはティーポットとマグカップ二つの乗った盆があった。

 二つのベッドの間にある小さなテーブルに盆を置いたマッシュは、ポットの中身をカップに注ぎ始めた。

「お茶だと眠れなくなっちまうと困るから、中身は白湯だけど」

「十分だよ。悪いな」

「朝メシの時に、おかみさんにお礼言っておいてな。わざわざ起きてお湯沸かしてくれたんだから」

 そう言って差し出されたカップをエドガーは両手で受け取る。陶器でできたやや年季の入ったそれからふわりと立ち上がる湯気と、手のひらに伝わる柔らかな温度が、気分をほどけさせた。

 マッシュは自分のカップにも白湯を注ぐと、それを手にして、向かいにあるもう一台のベッドに腰を下ろした。それぞれ自分のベッドに腰かけて向き合うような格好となった。

「聞かせてよ。ゆっくりでいいから」

 促され、エドガーは夢で見た内容をかいつまんでマッシュに説明した。マッシュは軽く相づちを打ちながら聞いていたが、話が進むにつれ徐々に表情が沈んでいった。

 そして、エドガーがあらかた話し終えたところで呟いた。

「夢の中の俺は、なんて言おうとしてたんだろうな」

 エドガーにはわかっていた。何しろ、あの弟を模った少年はエドガーの夢が結んだ像だ。そこには少なからず自身の思考が反映されているはずだった。

 しかしその言葉は、自己の、そして目の前にいる弟の否定に繋がるものだ。

 ためらったが、エドガーは、幼い「弟」の口から聞かれるはずだった言葉を舌に乗せた。それはひどく苦かった。

「『双子に、生まれなければよかった』」

 かすかに息を飲む音が聞こえる。エドガーはその方向を直視できなかった。

「――あのまま夢が続いていたら、そんなことを言われていたはずだ」

「夢で見るってことは、兄貴自身、そういうふうに感じてるのか?」

「……わからない」

 それはエドガーの正直な思いだった。

「そうだと信じているわけではないが、かといって全く考えたこともなかったと言えば嘘になる。考え始めたのは……この、関係に至ってからだ」

 そんな不毛な考えを持ったところで、何かが変わるわけでもなければどこにも行き着く先はない。

 わかっているはずなのにいつの間にかそれにとらわれていたのは、兄弟で愛し合う過ちの起こりを、自分たちの力が及ばない根源的なところに求めようとする、一種の逃避なのだろうか。

 そして先ほどの夢において、弟という第三者の姿に語らせることで、その考えを正当化しようとしていたのだろうか。

 弟は何も言わない。しばらく、耳鳴りのするような静寂が場を支配した。

 ややあって、ぬるくなってしまっているであろうカップの中身を口に含んでからマッシュが切り出した。

「あのさ、俺の考えを聞いてくれないか」

 マッシュはカップをベッド脇のテーブルに置くと、エドガーの隣に移動してきてシーツの上に腰かけた。ベッドがさらに深く沈んだ。

「俺は、双子に生まれてよかったと思ってるよ」

 言いながらマッシュはエドガーの手を握る。

「だってさ、そうじゃなかったらこうして手も繋げない」

 握られた手を引かれ、エドガーはマッシュの腕の中に抱きとめられた。

「こうして抱きしめることもできない」

 そのままじっと動かずにいると、かすかに、マッシュの体から鼓動が伝わってくる。それはエドガー自身の拍動なのかもしれなかった。

「それに、涙を拭いてやることだってできないよ」

「おい、泣いてはいないぞ」

「泣きそうな顔してた。他の誰もわからなくても、俺にはわかるよ」

 ――どうしてだと思う。低い声は柔らかくエドガーに尋ねた。

 その問いへの返答を待たずにマッシュは続ける。エドガーの体に回されている腕に徐々に力が込められていった。

「……考えたって、仕方ないだろ。双子に生まれなきゃよかったなんて。別に、一つに戻っておふくろの腹ん中からやり直せるわけでもないんだから」

 ぽつぽつとしずくのように落とされていたような言葉が、流れを持ち始めた。

「でも、だからって、兄貴がそう考えること自体を止めさせることはたぶん、俺にはできない。それがすごく……悔しいよ」

 そして、ついには堰を切ったように溢れ出した。

「俺にできるのはこれくらいだ。今言ったようなことをして、ずっと、ずっと一緒にいることだけだ……なあ、それじゃ、だめなのかな」

 マッシュはエドガーの首筋に鼻先をうずめながら呟く。控えめに、しかし強く希う声が肌をくすぐった。

 

「これくらい」と今しがたマッシュは言ったが、エドガーにとっては、それは嫌味なほどの過小評価だった。

 そして、仮にマッシュがほのめかしていたことが事実だったとしたら――双子だからこそわかることがあるのだとしたら、今エドガーの胸に生まれたこの感情こそ、伝わってしかるべきではないだろうか。

 エドガーはマッシュの背中に手を回した。圧迫で息が苦しくなるのも構わず、自分の身に相手の体を強く引き寄せた。マッシュの後ろ髪が自分の息で揺れるのを眺めながら囁いた。

「なかなかいい口説き文句じゃないか……及第点かな」

「茶化すなよ」

 不満そうな声に追随して、軽く鼻をすする音が聞こえてくる。たくましい肩が今は少し震えていた。

 エドガーは、じんわりと熱を持ち始めた目を細めながら聞いてみた。

「涙をぬぐう手が必要か?」

「……うん」

 幼い子どもでも、今どきはもっと大人びた返答をするだろう。そう思わせる素朴な返事にエドガーははからずも吹き出した。

「ちょっと、笑うなって」

 体を離し、声色はふてくされたように言うマッシュこそ、太陽の笑顔だ。そして今はきっと天気雨のように涙が頬を伝っている。

 エドガーにはその光景が鮮明に見えていた。たとえ滲む視界の中であっても。