16. 繋いだ手もかつてはひとつ

酔っ払いエドガーの相手をするマッシュ。甘い雰囲気漂いつつ、なにやら不穏な感じもあったり。

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 町の酒場まで兄を迎えに行ったマッシュは、目の前に広がる光景に確信した。――これは相当酔っている。

 広いホールの一角、目的の人を探して見つけた卓には、目の据わったセッツァーと、テーブルに突っ伏して何事かをうめいているロック。マッシュの尋ね人は、そんな二人をよそにへらへら笑いながら手を振っていた。

 卓上には無数の空き瓶が転がっている。宿でエドガーを見送ったのは確か夕暮れ時だったが、今やマッシュの普段の就寝時間をとうに過ぎている。その間ずっと飲み続けていたのだろうかと想像するだけで、一滴も酒を飲んでいないマッシュでさえ頭が痛む思いがした。

 それでも、宿へと戻る道中、そして宿の受付のおかみさんに挨拶をしたところまではエドガーは酔いを全く感じさせずしゃんとしていた。

 しかし階段を上がり部屋に近づくにつれ雲行きは怪しくなってくる。マッシュが支える体は徐々に弛緩していき、ゆだねられる体重はそのぶん増す。

 部屋にたどり着き、なんとか宿の寝間着に着替えさせ、ベッドまで引きずっていくころにはエドガーの体にはもうほとんど力が入っていなかった。

「ほら、着いたよ兄貴」

 支えていた体を慎重にベッドに横たえる。

 その間エドガーは少しの抵抗も見せなかった。もうすでに深い眠りに入ってしまったかのように目を閉じ、シーツにくたりと体を沈めている。顔色はそこまで悪くないが、ここまでぐったりしていると心配だ。マッシュは深くため息をついた。

「あいつらに言っておいた方がいいかな」

 つい独り言が漏れる。ロックとセッツァーとともに酒を飲みに行くことは否定しないが、程度に問題がある気がする。マッシュは、今後は兄にあまり飲ませないでやってほしいと彼らに頼んでおくべきか考えた。おそらく「過保護だ」と一蹴されて終わりなのだろうが。

 その時、エドガーが軽くうめくような声を発した。

 マッシュはあわててエドガーの顔を覗き込むが、表情に苦しそうなようすはなく、むしろ穏やかだった。よくなついた猫が飼い主に対してするように、枕に頭を擦り付けている。その動作はマッシュを和ませ、少しばかり憂慮をやわらげた。

 そのままエドガーの顔を眺めていると、ふいに、まつげが震えた。ゆっくりと上がっていくまぶたのすき間から眠そうな瞳が現れる。完全に開ききっていない目で、エドガーはぼんやりとマッシュを見上げた。

「マッシュ」

 かろうじてまだ店じまいはしていない、といった声だった。しばらくマッシュを見つめていたエドガーだったが、ベッドの上、自分の隣の申し訳程度に空いている空間にゆっくりと視線を移す。そして何かを訴えるように再度マッシュを見る。どうやら同衾の誘いらしい。

 マッシュとしては、やぶさかではない。しかしいかんせん今日は場所があまりよくなかった。宿泊代が手ごろな宿の寝台はお世辞にも立派とはいいがたい。

「このベッドに二人で寝たら、多分ぶっ壊れるぜ」

「弁償すればいい」

「『不要な出費はなるべく抑えるようにしよう』って言ってたのはだれだっけ」

 数日前、仲間全員で行なった作戦会議の時にエドガーが用いた表現を引用したが、当の本人は眉をひそめた。

「どこのどいつだ、そんなことを言ったのは」

「なんだよもう」

 酔いのせいで忘れているのか、冗談なのか。いずれにせよ、そのあまりに堂々とした物言いにマッシュは小さく吹き出した。

「とにかく、今日は別々のベッドだよ。おやすみ」

 なだめるように言って上掛けを肩まで引き上げてやる。

 しかしエドガーはまったく満足しなかったようだった。上掛けの中から右腕をぬっと出し、手のひらを広げてマッシュに向かって突き付けた。

「ん」

「ん?」

「お前も、手出せ」

 意図はわからないが、早々に満足させて眠らせるのが得策だとマッシュは判断した。ベッド脇に膝をつき、自らの左手をエドガーの手のひらに合わせてみると、ひやりとした感触が伝わってきた。夜の冷気のせいですっかり冷えてしまっていたらしい。

 手の大きさ比べでもしたいのだろうか。そんなマッシュの推測は当たっていたようだった。

「でっかい手だなあ」

 二人分の手を見つめながらエドガーはしみじみと言った。骨格自体はそう大きく変わらないはずだが、マッシュの手の方がひとまわりは大きい。マッシュは少しだけ胸を張った。

「まあね」

「厚みも、ぜんぜん違う」

「そうかな?」

 合わせられた手のひらが少しずらされる。エドガーの右手の指がするりとマッシュの指の間に滑り込み、軽く握った。その動作を、エドガーよりは少し強い力でもってマッシュは真似た。

「これが、元は同じところから始まって……ふたつに分かれて……今、それぞれ、こんなに違う形をとるようになったんだ」

 つながれた手を軽く揺らしながらエドガーは囁く。耳に心地の良い低い声は、ゆっくりと、しかしよどみなく流れる。歌うような響きに伴ってエドガーのまぶたは再度閉じられていく。

 自分への子守歌でも歌っているみたいだ。その考えは、マッシュの口元を綻ばせた。

「どうしちゃったんだ、急に」

 もはや半ば夢の中で、マッシュの声も届いていないのだろう。エドガーは問いには答えず、子守歌の続きを緩慢に紡いだ。

「……因果なものだ」

 マッシュはかすかに眉を寄せる。今聴こえた声とそれが示す言葉がうまく結びつかなかった。

 何度か頭の中で繰り返して、その考えうる意味に思い至った瞬間、全身の熱がざあっと引いた。

「……兄貴?」

 先ほどの言葉が自分の聞き間違いであることを願い、そうでなくてもせめてその真意を知りたかった。

 しかし、子守歌は先ほどの一節をもって終わりを迎えたようだった。エドガーの右手からは徐々に力が抜け、乾いた音を立ててシーツへと落ちる。絡められていた指もいつの間にかほどけていた。呼びかけに対する答えはなく、返ってくるのは穏やかな呼吸音ばかりだった。

 

 眠りに落ちた右手を、マッシュはしばらくそのまま握っていた。

 やがて、もう片方の手も乗せて両手で包み込む。暖めるように、あるいは祈るように。