コルツ山~リターナー本部まで。バルガスとの戦いを経てやや心が不安定なマッシュと、昔と変わらない兄貴
足裏に感じる大地の質感が徐々に変わってきた。踏むと少し沈む、湿り気のある土が固まって小石が交じるくらいになると、コルツ山域がもうすぐ終わるのだとわかる。
けもの道を覆う、縦横無尽に伸びる木の枝やうっそうとした藪をかき分けていく。一気に視界が開けた。
「おお、こりゃ確かに近道だ」
先頭を歩くマッシュのすぐ後ろで、出会ったばかりのリターナーの青年が感心したように言った。少し誇らしい気分でマッシュは応えた。
「このあたりは修行僧の庭みたいなもんなんだ」
土ぼこりの匂いがする。緑豊かなコルツとは対照的な、乾いた岩山の連なり――サーベル山脈が目の前に広がっていた。
山脈を進んだ先にあるリターナー本部へと急いでいる。ロックとエドガーから聞いて、マッシュは近道の案内を申し出たのだった。
背後から、二人分の靴音と葉の擦れる音がした。ロックから少し遅れて、ティナとエドガーも森を抜け出たようだ。
「あっ」
何気なく振り向いて、マッシュはつい声を上げた。
「ティナ、腕が……」
防具で守られていない白い上腕に、紅を刷いたような細い切り傷があった。そこから血がにじみ始めているのを見下ろして、ティナは他人事のように呟いた。
「ええ」
森を抜けてきた際に植物の棘で切ったのかもしれない。マッシュは応急処置のための道具を取り出そうとしたが、エドガーのほうが若干早かった。
エドガーはベルトに引っ掛けられている小さなポーチから携帯用の薬箱を出した。そこから、止血用の被覆材を取り出しティナに差し出した。
「少しのあいだ傷口を強く押さえておくといいよ。今はそれくらいしかできないから、本部に着いたらきちんと手当てをしよう」
「特に痛みはないのだけど」
「痛くなくても止血はしておいたほうがいい」
ティナはかぶりを振った。
「これからもっと傷を負うかもしれないでしょう、その時に魔法で治したほうが効率的だわ」
自分の体を顧みず、まるでモノとしてとらえているかのような言いぶりに、マッシュは眉を上げた。
「ずっとそうしてきたような気がするの。うっすらとだけど、覚えがある……」
淡々とした少女の声を聞いていたエドガーの瞳が険しく細まった。しかしまばたき一つのあいだにその険しさは消えて、代わりに苦笑いが浮かんだ。
「いいから、使いなさい」
穏やかながら有無を言わさぬ口調でエドガーはティナの手を取り、布をその中に収めた。
「本当に大したことないのに」
少し困惑したように言うティナをよそに、エドガーはマッシュとロックに向き直った。
「というわけで少し休憩させてくれ」
「了解。もうしばらく歩くから、今のうち休んどいたほうがいいな……そういやさ、そっちを少し行ったとこに川がありそうなんだ。ちょっと見てくる」
そう言いながらロックは、今しがた自分が指さした方向に向かって歩いていった。
この山脈地帯は乾燥しているが、大昔にここを流れていた大河の名残がまだ小川として残っているのは確かだ。しかしマッシュはロックの態度に釈然としないものを感じていた。自分を除く三人のあいだに、どことなくぎこちない空気が漂っているようだった。
どうしたものかと頭をかく。兄たちのほうを見、自称トレジャーハンターの離れていく後ろ姿を見、マッシュは後者を追うことにした。
ロックは小川のへりにしゃがみこんで、何をするでもなく水面を眺めていた。
「なあ」
呼びかけても彼は振り向かなかったが、「なんだよ」と返事があった。
「あの二人、なんかあったのか?」
ロックは肩越しに後ろを見た。その視線の先をマッシュは追ってみる。岩におとなしく腰掛けてエドガーの指示通りに腕を押さえているティナと、少し離れたところで機械仕掛けのボウガンを調整しているエドガーの背中が見えた。
再び川面に視線を落とし、ロックは頭をかいた。
「うーん、なんかあったってほどでもないけど、何もないと言えばそれも違うというか」
「……結局どっちなんだよ」
「まああれだ、お前の兄貴も色々思うところあるってこと」
トレジャーハンターはすっくと立ち上がり伸びをした。振り向いて明るい声で話題を転換する。
「それよかさ、お前とエドガーってどれくらい会ってないんだっけ?」
「十年だな。俺が兄貴の姿を一方的に見たことはあったけど、話をするのはずいぶん久しぶりだ」
目だけで天を仰いで、ロックはあきれ顔を作った。
「あいつ、自分のことになるとほんと秘密主義だよな。そこそこの付き合いになるけど、今までお前のことは一度も話さなかった」
「言わなくても知ってると思ったんじゃないか?」
ロックは無言で肩をすくめた。
それとも――ここ数年はすっかり忘れていたはずの卑屈な感情が、ここに来て突然頭をもたげた。
「それか……もしかしたら、俺のことなんて忘れたかったのかもな」
軽くうつむいてマッシュは呟く。その言葉は、実際に口に出してみると思った以上に自嘲を含んでしまった。返事は返ってこなかった。
マッシュとしては特に同情や慰めの言葉を期待していたわけではない。しかし何の反応も無いとそれはそれで気にかかる。相手のほうにちらと視線を向けると、彼は、濃く淹れすぎた茶を口にした時のような微妙な表情でマッシュを見ていた。
「なんでそうなるのか俺にはわからないけど……少なくともそれだけはありえないから心配するなよ」
なぜ、とマッシュが追及する前に、ロックは軽く両腕を広げてみせた。
「だって本当に忘れたかったら、そいつの好きな茶やら食器やらを覚えてるわけないだろ」
「え?」
聞けば、マッシュたちが過ごしていた修練小屋に一歩立ち入った瞬間に、エドガーの顔色が変わったのだという。
小屋の中を探すにつれ、エドガーの表情は動揺、期待、不安と次々に色を変えていき、めずらしく感情を乱されているようだった――それが、兄と友人関係にあるらしいこの青年の話だった。
ロックは足元の小石をひとつ拾い上げた。
「初めて見たよ、エドガーのあんな顔」
そう締めくくりながら、風を切るようにして川へと放り投げる。小石は水面を何回か跳ねたのちに姿を消した。
サウスフィガロで活動するリターナーの噂はマッシュのもとにも届いていたが、彼らの本拠地を訪れるのは初めてだった。
周囲を険しい山々に囲まれ、入り組んだ洞窟の中に構えられた本部は天然の要害といえた。敵から身を隠しつつ作戦を練るにはうってつけの場所だ。ただ、その中で行なわれた話し合いは順風満帆とはいかなかった。
まず、ティナがリターナーの指導者に引き合わされた。そこで彼女が直面したのは、自らの過去の所業と、リターナーが自身に託そうとしているあまりに重い期待だった。彼女は激しく動揺して今は救護室でロックの介抱を受けている。
ティナの回復を待つあいだマッシュたちには仮眠室が開放された。簡素なベッドに腰掛けて、マッシュは指先であごをさすった。伸びたままのひげが固く皮膚に擦れた。ここ数日は行方をくらませた兄弟子を昼夜追っていて、身なりを気にする暇もなかった。
出会ったばかりの少女についてマッシュが知っていることはわずかだった。彼女をめぐる国どうしの駆け引きやリターナーの思惑についても理解できているとはいいがたい。
しかし、今彼女が感じているであろう、混乱と失意の底に突き落とされながら決断を迫られることの苦しさを他人事として捉えることを、マッシュの記憶は許さなかった。
そしてそれはおそらく、血を分けた兄も同様のはずだ。
木製のドアがきい、ときしんで、静かな大部屋にブーツの足音が響いた。
「マッシュ、ここにいたか」
たった今マッシュが思い浮かべていたその人物は、マッシュの姿を認めて表情をやわらげた。今後の方針についてのバナンとの打合せが終わったらしい。
「どうだった?」
その結果について問うと、エドガーの顔はさっと曇る。
「ティナを帝国に引き渡すわけにはいかないが、かといって戦いを無理強いしても仕方がない。場合によっては彼女にはここに残ってもらうかもしれない」
向かいのベッドに浅く掛けて、エドガーは両手を組んだ。
「いずれにせよ、方針が固まるまでもう少し時間が要るだろうな」
「まずはティナの回復を待って、だな」
頷きながら、エドガーは眉間を指で揉んだ。
「兄貴も休んだら?」
「できれば、そうしたい」
「じゃあ少し寝たらいいよ。起こしてやるからさ」
久々に真正面からエドガーの顔を見て、気になっていたことがあった。目の下に暗く刻まれた隈だった。夜分に帝国の不意打ちにあって、城を出たその足でここまで来たというのだから、ろくに睡眠を取っていないのは明白だった。
しかしエドガーは緩く首を振った。
「半端に休むと、かえって頭の働きが鈍るんだ。とはいえ気を抜いてると寝てしまいそうだ……何か話しててくれないか。どんな話題でもいい」
何でもいいと言われると余計に迷ってしまうものだ。十年間の積もる話には事欠かず、選択肢が多すぎた。結局マッシュの頭が選び取ったのは直近で起こったできごとだった。
「そういえば兄貴、ティナとケンカでもしたのか?」
「ケンカ?」
目を瞬かせたエドガーは、戸惑いもあらわに言った。
「ほら、ティナが怪我して、山で休憩した時にさ。なんとなく変な雰囲気だったから気になったんだ。ロックも何かあったみたいなこと言ってたし」
「ああ……」
納得したように呟いたエドガーは、口の端をわずかに上げた。
「そういうふうに見えたのだとすれば、原因は俺の失言だろうな」
失言とは兄と無縁な言葉のように思えた。それをそのまま伝えると、エドガーはマッシュの顔を見やり「余計なことを言ってばかりだよ、俺は」と自嘲した。
「ティナの特別な能力――魔法を操る能力は、生まれながらに備わっていたものらしくてね」
マッシュは眉をひそめた。「魔法」というのは、大昔の魔大戦の記録や伝説をひもといてはじめて出てくるような言葉だ。それを現代に生きる人間が自然に使えるようになる。そう言われて、そしてティナという証人を見た後であっても、マッシュの常識とは折り合わない。
「でも、それは」
「そう、今の通説ではありえないとされている。だから……『生まれつき魔導の力を持つ人間はいない』などと言って彼女の苦しみを深めた。信頼を得られなくて当然だろうな」
「そうだったのか」
記憶を失くし訳もわからないまま帝国に追われていた状況下では、確かに、その言葉は受け止めるには重すぎたのかもしれない。
だからといって、ティナがエドガーに反発心や不信感を抱いているとは、マッシュにはあまり思えなかった。もっとも彼女は口数も少なく表情に乏しいので、確たる根拠があるわけでもないのだが。
「ティナは別に兄貴のこと嫌ってないと思うぜ。本人に聞いたとかじゃなくて、なんとなくだけど」
「そうであることを切に願うよ」
大きくため息をついてエドガーは天井を眺めたが、ふと気づいたように再度口を開いた。
「そうだ……ところでお前はどうなんだ。大丈夫なのか?」
顔を正面に戻したエドガーはまっすぐマッシュを見つめてきた。とはいっても、マッシュ本人には思い当たるふしがない。
「俺? 別に何ともないけど」
エドガーは一瞬言い淀んだが、結局はっきりと言った。
「お前の師匠と、あの男のことだ」
みぞおちを突かれた時のように息が詰まり、苦いものが喉をせり上がってきた。必死にそれを飲み下しつつマッシュは目を閉じた。
思い出さないようにしていた、というのが正直なところだった。兄弟子が、師匠でもある実父をその手にかけた――そんな一報を聞いた日のことはよく覚えていない。考える前に、身一つで修練小屋を飛び出していた。
気づいた時には、霧の濃い霊峰で、ともに修行をしていた時の面影を失くした瞳と対峙していた。ぎらぎらと憎しみに燃え、マッシュに実父と同じ運命をたどらせることだけを見据えた目を思い返すだけで、体が凍りつくようだった。
「そりゃあ……悲しいよ。悲しいし悔しい。ダンカン師匠のこともあの人のことも……」
声が震えたので何回か深呼吸を挟んだ。その間、エドガーは静かに待っていた。
「でも……もう過ぎてしまったことだし、何よりここまで来たんだ。今はできることをやるしかないだろ」
語尾がほんの少し涙声になったことに、昔の兄なら敏く気づいただろう。
そんな思考に自然に行きついたことを自覚して、マッシュは内心自分を笑った。
強くなったと思っていた。体の強さに心も自然と追いついているものだと信じて今日まで生きてきた。しかし人の本質などそう簡単に変わるものではないと、こみ上げてくる涙が突きつけてくるようだった。
このまま暗闇の中にいると、師の教えも修行に耐え抜いた事実もすべてが無に帰してしまいそうで、マッシュは慌てて目を開けた。
「……あれ」
正面に座っていたはずのエドガーの姿がない。あたりを見回そうとして首を横に向けると、いつの間に移動してきたのか、のぞき込むように傾げたエドガーの顔とぶつかりそうになった。
「兄貴」
びっくりしたよと言いかけて、口をつぐんだ。エドガーの手のひらがむき出しの肩に触れて、心地の良い体温が、一定の間隔でマッシュの肩を優しく叩き始めた。目が合うと、成長して変わったような、それでいてよく見慣れたといった不思議な印象を与える兄の顔が、穏やかに微笑んだ。
マッシュが今よりずっと幼く、何かにつけて泣いていたころそのままだった。エドガーはこのようにマッシュの肩を抱いて「大丈夫」と繰り返し言い聞かせてくれたものだった。
あの頃と違うのは、互いの体格差と、時折控えめに香ってくる知らない香水の香りだけだった。
「さすがに昔とだいぶ勝手が違うな。こうしてみるとお前、かなり成長したよな」
どう答えてよいかわからない。マッシュはうつむいて、やっとのことで笑い声を絞り出した。
「……当たり前だろ、兄貴よりもでかくなったんだから」
「一言余計だ」
肩に置かれていた手のひらが背中へと移った。なだめるように何回か往復した後に、ぽん、と軽やかな音を立てて離れていった。
そろそろティナのようすを見てこようと言いながら、エドガーは立ち上がった。
「兄貴」
顔を上げて、反射的に口走っていた。今自分がどんな表情をしているか、情けないと思いつつ重々心得ていた。
呼ばれたエドガーは振り返ってマッシュを見下ろした。次の瞬間、その冷静な顔が笑み崩れた。
「いや、それにしても……このひげ面! これは見慣れるまで相当時間がかかるぞ」
エドガーの指先が、ひげに覆われたマッシュの頬を撫でてからぴたぴたと軽く叩いた。マッシュはあっけにとられたが、目の前にある笑顔があまりに楽しげだったので、思わずつられて笑った。
「いつもはこんなに伸ばしてない。頃合いを見て剃るよ」
「うん、俺としても戸惑わなくて済むから、そのほうがありがたい」
冗談めかして片目を瞑り、今度こそエドガーはその場を立ち去った。
今しがた自分の頬に触れた、親愛のこもった指先の感触を、マッシュはしばらく反芻していた。――兄は自分のことを忘れたがっているなどと、どうして一瞬でも考えたのだろう。実際はロックの言ったとおりだった。
あの頃と変わらないエドガーの心の温度が嬉しくて、ここ数日バルガスの一件で凍り付いたままだった心の一部分が、ゆっくりと解けていくようだった。
同時になぜか、無性にさみしさを覚えた。それは焦燥感にも似たざわめきに変わり、胸の内にざらつきを残した。
一人残された仮眠室で、マッシュはもう一度目を閉じて深呼吸をした。