3. お互いのイマ

マッシュ編・魔列車での一幕。リターナー本部でのこと(第1話参照)でもやもやしているマッシュ。

 

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 がたん、がたんと線路の継ぎ目を通過する音に合わせて車両が揺れる。途中で停車することもなく、冥界への道のりは順調なようだ。

 死者の魂を運ぶこの列車が現世を離れるまでにはもうしばらくかかるというのが乗務員の見立てだった。だからといってあまり悠長にしているわけにもいかない。

 そんな状況をわきまえつつもマッシュは列車に対する興味を抑えきれずにいた。生まれてこのかた旅客鉄道にはなじみがなく、すべてが新鮮に映った。クッションのきいた座席は見るからに座り心地がよさそうだ。広々とした個室席はどういった人物が使うのだろうと想像を巡らせる。車窓の外は闇に包まれているが、駅らしき場所を通り過ぎる時は、外灯のおかげで流れていく景色が一瞬見えた。

 特にマッシュを驚かせたのは食堂車だった。白装束の給仕に促されるままテーブルにつくと、三人の目の前に次々と料理が並べられていった。透き通った琥珀色のスープに、新鮮な野菜を使った前菜。主菜は魚の香草焼きで、豊かなハーブの香りが食欲をそそった。

「こちらはお好きなだけお召し上がりいただけます。足りない場合はお申し付けくださいませ」

 言いながら給仕係が運んできた籠には、温められたロールパンが盛られていた。

 このようなものを口にしてよいのかとカイエンは気をもんでいたが、マッシュとしては、この食事がどういう理屈で提供されているかについてはさほど興味がなかった。金銭的余裕がなく野宿も多い旅路では、なかなかここまでの食事にありつくのは難しいのだ。

「よりによってこんなとこでまともなメシを食えるなんてな」

 パンをちぎりながらこぼした感想は、シャドウの冷笑を買った。

「此岸での最後の晩餐というわけか」

「え、縁起でもないでござる……」

 ナイフとフォークを置いて、カイエンが唸った。ただでさえ悪かった顔色がさらに青ざめたように見えた。シャドウは気に留めたようすもなくインターセプターに食事を分け与え始めた。

「まだ気にしてんの? 美味いし腹も膨れるしいいじゃないか」

 言いながらバスケットに手を伸ばしたところで、早くも中身が残り数個になっていることに気づく。マッシュは控えている給仕係に向かって軽く手を挙げた。

「おおい、おかわりある?」

 呼ばれて、幽霊はふっと姿を消した。ほどなくしてパンが盛られたバスケットを携えて現れ、マッシュたちのテーブルにふわふわと近寄ってくる。新しい籠を置いて、幽霊は恭しく一礼してからまたどこかへと消えていった。

 さっそくパンを取り嬉々として食事を再開したマッシュにカイエンは顔をひきつらせたが、表情はすぐに苦笑へと変わった。

「いやはや、見事な食べっぷりでござるなあ」

「これでも昔は小食だったんだ」

 水差しを傾けてグラスを満たしながら、マッシュは笑った。

「あまり食べられないから体も大きくならなくて、身長なんか兄貴に負けっぱなしだったな」

「ほう、きょうだいがいるのですな」

「双子の兄貴がね。フィガロの王さまなんだぜ」

 カイエンは目を見張り、徐々に浮かない顔つきになっていった。

「そうでござったか」

「なんだよ、どうかした?」

「いや、なんでもないでござるよ」

「そう言われると余計に気になるなあ」

 ためらうようすのカイエンだったが、「気を悪くしないでいただきたいのだが……」と前置きして続きを語り始めた。

「フィガロ国に対するドマ国民の感情というのは、複雑なのでござる。帝国と協力関係を築いていることを受け入れられない者が多くいた……陛下、つまりドマの王も、フィガロ王朝に対してあまり良い印象は持っていなかったでござる」

「それ、カイエンも同じように思ってるってことか?」

「む……まあ、そうなりますな」

 このサムライは嘘やごまかしは苦手だ。旅路をともにしたのはまだ短い時間だが、マッシュはすでに気づいていた。歯切れ悪くも実直な答えにはむしろ共感を覚えた。

「そりゃ仕方ないかもな。俺だってずいぶんやきもきしたんだぜ」

 カイエンは意外そうに眉を上げた。

「そうだったでござるか」

「ああ、帝国なんかいいもんじゃないってわかってたから」

 エドガーの即位後もフィガロの外交方針は変わらなかった。帝国の所業がサウスフィガロの住民の噂で漏れ聞こえてくるたびに、なぜ同盟を解消しないのかと一人身勝手に苛立っていた時期もあった。もし自分が城に残っていたら何か変わったのだろうか――詮無いことを考えては、ぶつける先のない怒りや後悔に飲まれそうになったことは一度や二度ではない。

 マッシュにとって幸いだったのは、正しく導いてくれる師と出会えたことだった。厳しい修行に打ち込んでいるあいだは吹きすさぶ嵐のような感情を忘れられた。

 そうして心と体が鍛えられていくにつれ、見えるものも変わってきたのだった。

「でも今ならわかるよ。国を、人を守るために兄貴は何年も耐えてきたんだ。それがなかったら俺たちは帝国と戦うことすらできなかったかもしれない……だからできれば信じてほしいと思う。フィガロのこと、兄貴のこと」

 無理にとは言わないけれど、と付け加えながら正面に座るドマの忠臣をうかがう。彼はマッシュの話を途中から目を閉じて聞いていた。マッシュが話し終わっても返答はなかった。

 やがて深く息をつき、カイエンはまぶたを上げた。微笑んだ目じりに柔らかく刻まれたしわが彼の温厚さを象徴していた。

「マッシュ殿がそう言うならば」

「よかったあ」

 知らず知らずのうちに張り詰めていた気が緩んで、マッシュは椅子の背に勢いよく体を預けた。椅子の脚が浮いてあやうく倒れそうになり、慌てて重心を前に戻す。

 絨毯の上に行儀よく座っていたインターセプターが、耳を立ててマッシュのほうに顔を向けた。鋭い闇色の目に落ち着きのなさを咎められたような気になって、マッシュはきまり悪さをごまかそうと話題を探した。

「実は俺も兄貴とはずっと会ってなくて。つい最近、十年ぶりくらいに話したんだ。変わってなくて嬉しかった」

 いつだって自分のことよりも周りをよく見、そして気にかける。何より、昔と変わらず、マッシュを慰め励ましてくれた。リターナー本部で触れたエドガーのぬくもりを思い返す。

「嬉しかったはずなんだ。でも、なんでかな。だんだん変な気持ちになってきてさ」

 かすかに眉を寄せたカイエンが控えめに、しかし続きを促すように覗き込んできた。シャドウはテーブルに視線を落としたままだ。知り合って間もないこの二人になぜ打ち明けようとしているのか、自分のことながらマッシュにはわかっていなかった。ただ、ぼんやりと認識していたざらつく感情が具体的な言葉になっていくのを、どうしても抑えることができなかった。

「一緒にいると昔の自分に戻っちまう感じがするんだ。兄貴はずっと兄貴のままで、それはいいことなのに、俺も結局は俺のままなんだって思ったとたんに、なんていうか――」

「――くだらん」

 まとまらないマッシュの話に、今まで口をつぐんでいたシャドウが割り込んできた。

「なんだって?」

 マッシュは反射的に声の主を睨んでいた。当の本人は平然としていたが、その相棒たる猟犬が、不穏な気配を察知したのか小さく唸り声を上げ始めた。

「お前の思考も感情も、過去に縛られている。記憶への執着は今を生きるうえでは足枷にしかならん」

「そんな言い方――」

 むきになって言い返そうとしたマッシュに、今度はカイエンがなだめるように言った。

「まあまあ……言い合う暇があったらまずは食事を済ませるでござる」

 ふ、とシャドウが覆面の下で小さく息を吐いた。

「下手をするとナルシェどころかこの世に戻れなくなるな」

「……それは、すごく困る」

 いつの間にかカイエンとシャドウの皿は空になっていて、あとはマッシュの皿に主菜の残りが少しと、パンを一つ残すのみだった。先ほどまではまだ腹に余裕があると思っていたのに、突然食欲が失せてしまった。

「マッシュ殿の話を聞いていたら、早く兄君に会ってみたくなったでござるよ。そのためにも急ぎましょうぞ」

 仲裁の延長線上か、カイエンが穏やかに言った。

 マッシュは急いで皿の上の魚を片付け、パンを雑に咀嚼して飲みこんだ。小さく噛み切れなかったままの塊が喉に重たく残る。グラスの水で無理やり流し込んだ。

「よし……じゃ、行こうか」

 心に引っかかることはあれど、今はそれにかかずらっている場合ではない。そう自分を叱咤し、マッシュは席を立った。