7. 昔も今も、君は僕の心など簡単に奪ってしまうのだ

世界崩壊後、マッシュとセリス合流〜フィガロ城再浮上まで。過去とかいろいろ捏造、細かいとこで何か矛盾とかあったらすまぬです

 

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 辺りをぐるりと見回してみても、広がっているのは全く同じ風景――焦土だった。

 方向感覚が狂いそうな中を、かろうじて破損をまぬがれたコンパスと、自分たちの記憶を頼りに歩いていく。ただ、見たところ地形はすっかり変わっていて、磁場も乱れている可能性もあるため、想定している場所にたどり着けるかはわからなかった。

 ともあれ今できることといえば立ち止まらないことだけだ。マッシュは、ツェンで再会したセリスとともに港町ニケアを目指していた。

 朝も夕も燃えているような空の色は変わらず、美しさと禍々しさの奇妙な均衡を保ちながら、時間の感覚まで狂わせようとしてくるかのようだった。それでも夜には日が落ち暗くなる。

 町にたどり着けなかったので今夜はテント泊だ。モンスターから身を隠してくれるような洞窟や森はないため、一人が寝ている間はもう一人が見張りをして交代で身を休めることにした。マッシュの背後にあるテントでは、今セリスが休んでいた。

 枯れ葉や枯れ枝、燃えそうなものは何でもかき集めて起こした焚き火の前にあぐらをかいて、マッシュは頼りなく揺れる炎を見つめていた。腰に下げた小さなポーチの奥に手を伸ばす。指先に冷えた金属が触れた。

 世界を揺るがせた混乱のさなかで、すぐにどこかに紛れてしまいそうなコインを失わずに済んだのは奇跡だった。ただ、引き換えに、マッシュが目を覚ました時には仲間はみな姿を消していた。昼も夜もなく手当たり次第に仲間を、兄を探し求めたが、結局セリスひとりと再会するにも一年かかった。

 兄から預かった硬貨には、表面にも裏面にも王の横顔が刻まれている。マッシュがそのことに気づいたのは魔大陸に降り立った後だった。コインに裏面が無いとわかった瞬間、マッシュは無性にエドガーに会いたくなった。

 エドガーがコインを託した意図や、自分がどんな感情でいればいいのかはまるでわからなかった。ただ、一刻も早くエドガーのもとに帰って顔を見たかった。何を話すでもなく、ただ隣に座って肩を抱く。それだけをする時間が必要ということだけが唯一確かだった。

 しかしそれは叶わなかった。それどころかエドガーの消息さえ未だわかっていない。コインを取り出して眺めるごとに、希求する思いはつのるばかりだった。

(表が出たら――)

 結果は決まっている。気休めにすらならないとわかっていても、マッシュはすがる思いだった。

(――表が出たらすぐに兄貴に会える)

 親指の背にコインを乗せて強くはじいた。

「あっ……あぶねっ」

 変に力が入ってしまったのか、コインは真上ではなく見当違いの方向へと跳ねて、危うく火の中に飛び込んでしまうところだった。すんでのところで小さな硬貨を確保して、マッシュは大きく息をついた。

「大丈夫? マッシュ」

 背後から声をかけられてマッシュは飛び上がった。振り返ると、必死に笑いをこらえているような表情でセリスが見下ろしていた。

「ああ、うん。なんでもない」

 咳払いし、平静を装いながらマッシュは答えた。

「起こしちまったか、悪いな」

 セリスは緩く首を振った。

「起きてたから大丈夫。なんだか眠れなくて」

 言って、セリスは隣に座った。疲れが刻まれた横顔は、揺れる炎に照らされてことさら影を濃くしているように見えた。しかしマッシュの手の中のコインに目を留めると、心なしか表情が明るんだ。

「少し借りてもいい?」

 意図がわからず一瞬ためらったが、悪いようにはならないだろうとマッシュはコインを乗せた手をそのまま差し出した。セリスはコインをつまみ上げ、先ほどマッシュがしたように親指の上に置いた。

「どっち?」

 子どもっぽく瞳を光らせながらセリスが聞いてくる。頬をわずかに緩ませつつマッシュは即答した。

「表」

「じゃあ私は裏ね」

 小気味よい音とともに美しい弧を描いてコインが舞う。白い手の甲に着地した面は、王の横顔を見せていた。

「残念だったな」

 マッシュの勝利宣言に相手は軽く肩をすくめた。マッシュはコインを回収がてら、セリスの目の前でその両面を示してみせた。

「あ……」

 セリスが目を見張る。あっけにとられたような表情にマッシュは思わず笑った。

「変なコインだろ」

「もしかしてこれ、エドガーの?」

 その一言に、内臓がよじれるような感覚に襲われた。

「なんで……なんでセリスが知ってるんだよ」

 自分ですらその存在を知らなかったのに――と続けそうになるのを耐えた。責めるような口調になったことを詫びるのも忘れていた。急に態度が変わったマッシュにセリスは当惑の表情を隠さなかったが、ほどなくして冷静に説明を始めた。

「……最初にセッツァーと会った時に、飛空艇を借りるための交渉をしたの。交渉というか、正確に言うと『賭け』ね。両表のコインをエドガーから借りて『賭け』をした」

 セリスの視線が、遠くを見るようにして銀貨へと向けられた。

「ギャンブラー相手なら正攻法以外を用意しておくべきだ、って最初にロックが提案して……それをエドガーが、コイントスっていう具体的な策に仕立てたの。その時使ったコインに似ていたから……」

 セリスはその先に何か続けようとしたが、口だけが動いて声は発せられなかった。やがて彼女の視線は逸らされ、静かに燃えている小さな火へと移った。

「そうだったのか」

 脱力して、マッシュはうなだれた。「似ていた」とセリスは表現したが、おそらくはこのコインこそが作戦に用いられたものだろうと直感した。

 空虚な衝撃がマッシュの心を侵食する。この硬貨に関して、存在自体が自分とエドガーだけの秘密だと勝手に思いこんでいた。

「ごめんなさい、私、何か気に障ることを……」

「いや、いいんだ」

 案じるように言いながらセリスが顔を覗き込んでくる。その気遣わしげな瞳からマッシュは逃げた。セリスが謝ることなど何一つないのだと、彼女に詰め寄ったことを恥じ、やり場のない感情を持て余しながら自らに言い聞かせるように呟いた。

「なんでもないんだ」

 

 翌日、早朝からほぼ休みなく歩き続けた甲斐あって、ようやくニケアに到着した。そこで待ち受けていたのは予想外の再会だった。

 市場の雑踏の中でも、その横顔を見間違うことはなかった。ずいぶんとやつれていたし、目の下の影はくっきりと濃い。髪色も服装も見慣れないものだったが、その人がエドガーだとすぐにわかった。マッシュとセリスは思わず顔を見合わせて笑顔になった。向こう数年エドガーとは出会えないことも覚悟しつつあったマッシュは、願掛けというのはしておくものだと妙なところで感心した。

 ただ、当の本人は決して自分がエドガーであることを認めなかった。

「――ねえ、エドガーなんでしょ?」

「人違いだ」

 追いすがるセリスに対し、ジェフと名乗った男は「諦めな」と取り付く島もなかった。セリスがもどかしそうにマッシュを見る。説得に加わってほしいのだろう。

 彼女の望む、言い逃れができないような状況はもしかしたら作れるかもしれない。マッシュの意識はポケットに眠っているコインへと向いた。成功する可能性は低いだろうが、マッシュとエドガーがこれまで唯一行った「賭け」について揺さぶりをかけ、感情のほころびを突くことができれば、あるいは。 

 マッシュはジェフの横顔を見つめた。視線に気づいたらしい彼はマッシュの方を向いて軽く首を傾げた。何食わぬ顔だが、マッシュの中では、コインを託された時の、怯えたようにこわばったエドガーの表情が重なった。

「何か?」

 盗賊の頭を自称する男の問いに対して、マッシュは無言で首を横に振った。

「マッシュ!」

 動揺するセリスとは対照的に、ジェフはどことなく緊張を解いたように見えた。

「今日はめずらしく波が穏やかでな。航海にはもってこいだ」

 マッシュたちに向けて言ったのか、それとも独り言のようなものなのか、ジェフは遠くの海を眺めながら言った。

「それではよい一日を、美しいレディ」

 そしてセリスに視線を戻すと、およそ「荒くれ者」には似つかわしくないような礼をして港へ歩いていった。

 

   ◆

 

 ジェフの目的地は砂に沈んだままのフィガロ城だった。そしてこのような事態を引き起こした元凶のモンスターを討伐して、やっとマッシュたちはエドガーとの「再会」を果たした。

「しかし、やっかいな魔物だったな」

 ジェフ配下の盗賊たちが宝を持って出ていった直後、エドガーが大きく息を吐いた。

「こんなとこまで入り込むなんてなあ」

 同調しながら何気なく兄を見たマッシュは、暗い色合いの衣服にさらに色濃い染みが大きく広がっているのを認めて、青ざめた。

「兄貴、それ……血か?」

 マッシュが指さす先に視線を落としたエドガーは、あっさりと頷いた。

「ああ。不覚を取ったが、もう回復魔法で傷はふさいである」

 城のエンジンに絡みついていた触手は縦横無尽に動き回ったため、三人は一箇所に固まらず、それぞれ敵と対峙する戦法をとった。それが裏目に出たようだ。エドガーの負傷に気付けなかったことにマッシュは歯噛みした。

「それより早く浮上を――」

 そう言って階段に向かいかけた兄の体が大きく傾いた。マッシュは急いで駆け寄り、エドガーが倒れる前に体を支え、その場にゆっくりと座らせた。

「エドガー!」

 セリスが慌てたようにエドガーの側にしゃがみこんだ。

「すまない、少しふらついただけで……大丈夫だ」

「大丈夫っていう顔色じゃないわ」

 その言葉の通り、エドガーの顔は血の巡りが感じられないほどに白かった。力なく投げ出されていた手に触れてみると水の冷たさだった。

「血を失いすぎたか」

 他人事のようにエドガーは呟く。セリスはそんなエドガーを険しい表情で見つめながら口を開いた。いつも一本芯の通っているような声が、今は震えていた。

「魔法は……外傷をふさぐことはできるけど、体液を補給したり、失った体の機能を取り戻すことまではできないの。それでも、もとが元気な状態なら、傷を治すだけでもどうにかなるけれど……」

「心配しすぎだよ、セリス」

 エドガーが指摘したセリスの憂慮は、彼女自身の喪失の経験によるものかもしれない。

 孤島での生活で得た、たったひとりの「家族」のぬくもり。それをわずかな時間で失ってしまった経緯をマッシュが知ったのは、ツェンで再会した翌日のことだった。家族を失うとはどういうことか、その時初めて知った――そう淡々と語るセリスの瞳は昏かった。

 マッシュも、それがどういった心地かよくわかっている。そして二度と繰り返すわけにはいかないのだ。

「セリス、頼みがある」

 立ち上がろうとするエドガーの肩を押さえながら、マッシュは切り出した。

「城ん中を回って、けが人がいたら手当てしてあげてくれ。後から俺も行く」

 力強く頷いたセリスは、上階へと続く階段へと急いだ。

「離せ」

 セリスが階段を駆け上がる音が響く中、エドガーは苛立ちを込めて言う。

「だめだ、兄貴はここで休んでろ」

「そうはいかない、城の浮上が優先だ。それに皆のようすを――」

「兄貴に何かあったら、みんな助かったってなんの意味もない」

 感情が高ぶった瞬間、叫びが口をついて出ていた。苦しみにか歪んでいたエドガーの表情が、驚きで無防備になった。なぜか泣きたいような心持ちで、マッシュはエドガーの目を見つめながらゆっくりと言った。

「……俺だってこの城の人間なんだ。今だけでいい、まかせてくれ」

 エドガーはかすかに眉を寄せて表情を曇らせた。しかしほどなくしてマッシュから視線を外し、静かに頷いた。
 
 一つ上の階にある操舵室へと急ぎながら、マッシュは遠い記憶をたぐり寄せていた。

 幼い頃は、浮上と潜航の制御を行うこの部屋への立ち入りは禁じられていた。それが、マッシュたちが十六になった年に、先王が二人をこの部屋に通し舵の操作を教えたのだ。

 これまで入れなかった場所に許されて好奇心が先行したマッシュに対して、エドガーは父に疑問を投げかけていたのを覚えている。なぜ今自分たちにこの部屋を見せようと思ったのか、と。父は『城の主たる者、城内のことはすべて知っておかねばならないだろう』と微笑んでそれ以上は何も言わなかった。

 父に関する記憶は、城を出てから心の奥底に閉じ込めて、できるだけ触れないようにしてきた。しかし今こうしてなんの抵抗もなく思い出せていることを、マッシュは自然と受け入れていた。

 

 城が無事砂漠に浮上したことを確認すると、マッシュは真っ先にエドガーを寝室に運んだ。衣装室から適当に引っ張り出した清潔な服に着替えさせ、ベッドに体を横たえた。

 ほとんど失神するように眠りについたエドガーの、血液のこびりついた肌と乾ききった唇が痛々しかった。不快な要素はできるだけ取り除こうと、エドガーが規則的な呼吸をしていることを確かめてから、マッシュは廊下に出た。

「ああ、マッシュ」

 廊下の向こうから、一歩一歩に注意を払うようにゆっくりと、しかし存外しっかりとした足取りで神官長が歩いてくるのが見えた。

「ばあや! 大丈夫か?」

 駆け寄って彼女の体を支えようとしたが、神官長はそっと首を横に振った。心配をにじませたまなざしが、寝室のドアに留まった。

「心配には及びません……それよりエドガーは?」

「今は寝てるよ。まだ苦しそうだけど、とりあえずは安定してる」

 そうですか、と息を吐いて、神官長は今度はマッシュを見上げた。

「それで、あなたは」

「飲み水と、体を拭くものを探しに行くところ」

「必要なものは後で部屋に届けます。あなたは、エドガーのそばにいてあげて」

 神官長はマッシュの手を取ると、自分の両手で包みこんだ。昔と変わらない優しい手つきだった。

「本当に、よく戻ってきてくれました」

「……そんなこと言うのはばあやだけだ」

 ぶっきらぼうな言い方は照れ隠しだった。それもすべて見透かしているのだろう、神官長は目尻を下げる。

「あら、あなたの兄もそう思っていますよ」

 少なくともマッシュがエドガー本人からそう言われた記憶はない。肩をすくめてみせたマッシュを見て、神官長は深くため息をついた。

「まったく、口数が多い割に肝心なことは言わないんだから……」

 すっかり「神官長」ではなく「ばあや」の顔になったうえでの小言に、マッシュは苦笑いを禁じ得なかった。

 マッシュは再び兄の寝室へと戻り、椅子を一脚ベッド脇に移動させた。そこに座ってエドガーの血の気が戻らない顔を見ているうちに、ふと思い立つ。

 エドガーに着せているローブの合わせをくつろげて、細かい傷跡のついている腹の上に両手を重ねて置いた。目を閉じ、意識を手の指の先まで集中させる。やがて、自分の体の中に湛えられた生命をつかさどる気が、水のように指先へと流れていく想像と感覚とともに、エドガーの肌に触れている指がじわりと温まっていくのが感じられた。

 仲間と離ればなれになっている間に修得した、癒しの技だった。

「……マッシュ……?」

 目を覚ましたエドガーが、まだもうろうとしているような瞳をマッシュに向けた。

「あ、動かないで。まだ寝てなよ」

「何……してるんだ」

「俺の技のひとつ。修行の成果さ」

 チャクラ、と師匠は呼んでいた。連日の修行であざを作ってばかりいたマッシュを見かねて、ダンカンが一度この技を施したことがあった。

「表面の傷にはあまり効かないかわりに体の中を整えるんだ。治りはゆっくりでもそのぶん怪我の前より元気になるぜ。まあ、おっしょうさまの技には全然及ばないだろうけど」

 手を置いたまま、エドガーに笑いかける。エドガーは口元を緩ませて、マッシュの手の上にそっと自分の手のひらを重ねた。

「温かい……」 

 ほとんど吐息だけの言葉だったが、確かにマッシュの耳に届いた。それから数分もしないうちに、エドガーは再度目を閉じて眠りに落ちていった。

 そういえば、とマッシュはエドガーの手を眺めて思い出す。エドガーの体調が戻ったらコインを返さなければならない。ただ、何と言って返せばよいのか、本人を目の前にすると余計にわからなくなった。なぜ黙っていたのかと追及したいような気持ちは、すでに消え失せてしまっていた。

 頭の整理がつかないまま、エドガーの顔に視線を移した。

 難しい表情でいることも多いエドガーの、警戒も緊張もすっかり解いたようすがうかがえる場面は限られてくる。額には、眉間を寄せた時のしわは無くなめらかだった。時折まつげを揺らすさまは、幼い頃に見たエドガーの寝顔を思い出させる。実際よりもいくつか幼く見える貌を、マッシュはじっと見つめていた。

 思えば、再会してからエドガーがマッシュの前で見せた「脆さ」は、これで三度目になる。一度目はコルツ山にて「一緒に来てくれるか」と尋ねた遠慮がちな背中。二度目は、コインをマッシュに預けた際の怯えたような表情。三度目が、今この瞬間だ。

 その時突然、腹を起点に上半身全体がかあっと熱を帯びた。同時に、胸の奥を突然掴まれたような息苦しさに見舞われた。それは、これまで生きてきた中で片手で数えられるくらいしか経験したことのない感覚だった。その正体が何なのか、すでにマッシュは知っている。

「そうか……」

 無意識に、マッシュは呟いていた。たった今得た気づきをマッシュは驚きと納得の両方をもって受け入れた。そして、自分がこれから何をすべきかはっきりとわかった。わかってしまえば至極単純なことだった。

「ずるいよ、兄貴」

 その囁きは、深い眠りに沈んでいるエドガーには聞こえる由もなかった。