8. 成長とは恋に臆病になることなのか

#7のちょっと後、マッシュの決意に触れて心乱されるエドガー

 

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 目を覚ますと視界には見慣れた天井が広がっていた。しかし眠りにつく前と比べてあまりに体が軽かったので、エドガーはぼんやりとした頭で、いよいよ自分は現世の住人ではなくなったかと考えた。

 それを否定したのは弟の声だった。

「起きたか」

 突然視界に現れる形でひょいと覗き込んできたマッシュに、エドガーは一瞬言葉が継げなかった。しかし安堵したような微笑みを見ているうちに徐々に記憶が戻ってくる。世界の崩壊、城の不具合、盗賊たちとの出会い、そして――

「俺は……どのくらい寝てた?」

「一日半ってとこかな。具合はどう?」

 エドガーが上半身を起こすのを手伝ってから、マッシュはベッドの横に置いてある椅子にかけた。

「少しだるい感じはあるが、それ以外は不気味なほど元気だ」

 今すぐにでもベッドを飛び出して旅路を再開できそうなほどだった。それなりに消耗していた覚えがあるが、どのような治療法を使ったのだろうか。尋ねてみると、「覚えてないのか」とマッシュは眉を下げた。

「うん、魔物を倒して……それからがどうもはっきりしない」

 かろうじて手繰り寄せることができたのは、みぞおちのあたりに感じた穏やかなぬくもりだけだった。

 苦笑して、マッシュは頬をかいた。

「ま、とにかく元気になって良かった。渡したいものがあってさ」

 ポケットから何かを取り出し、マッシュはエドガーに向き直った。

「兄貴、手出して」

 エドガーが差し出した手のひらに、小さく硬質な金属が乗せられる。皮膚に触れた感触だけでその正体がわかった。

「返すよ。結局一年かかっちまったけど」

 マッシュの手がゆっくりと離れるにつれ、先王の横顔が姿を現していく。マッシュはいったんそこで黙り込み、じっとエドガーの横顔に視線を注いだ。言外に、このコインについての説明を求められているように感じられた。沈黙を埋めようと、エドガーの口は言葉を発していた。

「どう、思った?」

 この期に及んでなお逃げ腰になっている自分をエドガーは嘲った。そんな内心を知ってか知らずか、マッシュは軽く首を傾げた。

「どうって言われてもなあ」

 恐れに反し、からりとしている態度に安堵する。気が緩んだ拍子に、エドガーはかねてからの疑問をつい口にしていた。

「親父は、どうして俺にこれを……」

「それを俺に聞くか?」

 わかるわけないだろ、とマッシュは降参するかのように軽く両手を挙げてみせたが、直後に「でも」と続けた。

「親父の考えはわからない。けど、俺にとって大事なのは、兄貴はこいつで俺を救ってくれたってことだ」

 コインが乗っている手のひらに、マッシュの厚い手が重ねられた。

「だから――だから、今度は俺が兄貴のことを守る。恩を返させてくれ」

 エドガーはまぶたを伏せた。今の弟ならばそのように言うであろうことはじゅうぶん予想でき、そしてそれはエドガーが危惧していたことでもあった。

 それなのにマッシュにコインを託したのは、魔大陸に乗り込む弟が無事に戻ってこられるようにという、いわば願掛けだった。しかしそれはマッシュをエドガーのもとに、ひいては国に繋ぎ止めておくことと同義ではない。自由を選んだ弟の枷になるのは、エドガーが最も望まないことだ。

 エドガーは、空いているほうの手でマッシュの手の甲に触れた。笑顔を作ろうとした口角が軽くけいれんするのを感じた。

「気持ちだけ受け取っておくよ」

 そっと目を上げて窺ったマッシュの表情はあからさまな困惑を見せていた。視線を固定させたままエドガーは続ける。

「負い目を感じてるんなら、その必要はない」

 マッシュのまなじりがみるみるうちにつり上がっていく。連動するように語気が強まった。

「そんなこと、ひとことも言ってないだろ」

「俺が言いたいのは、自分のために生きればいいんだ。お前にはその権利があるんだから」

「大切な人を守ることは自分のためにならないってのか?」

 一息に、叫ぶようにマッシュは言い放った。先ほどまでの素朴な穏やかさはすっかり鳴りを潜めていた。怒号は壁に滲むように反響して、部屋を実際よりも広く錯覚させた。

 自分の声の余韻が消え、その場が無音になって数秒ののち、マッシュは再び口を開いた。

「弟として言ってるんじゃない」

 やや落ち着きを取り戻した低い声が耳に沁みていく。冷たい汗が一筋、エドガーの背中を滑り落ちた。弟の立場としての言葉でないのだとしたら――

 真意をあえて問いたださないまま、エドガーは答えた。

「俺のことなら心配いらない、城の皆もいるしな」

 マッシュはじれったそうに唇を噛んだ。振り払うようにエドガーの手から逃れた後、両手でエドガーの肩をつかむ。

「違う、そういうんじゃなくて……なあ兄貴、兄貴だってもう、わかってるんじゃないのか」

 再び冷や汗が伝うような感覚がした。エドガーは軽く首を振った。

「勘違いかもしれないだろ」

 再会の高揚、唯一の肉親に対する親愛。そういった感情と混同しているのだと続けようとした。しかし弟は即答した。

「違う」

「どうして断言できる?」

 切り返すと、マッシュはそこで初めてためらいのようなものを見せた。

「それは……」

 瞬きの回数が増しているのは緊張からだろうか。エドガーが観察していると、マッシュは目を閉じたっぷりと時間をとって深呼吸を何度か繰り返した。それから、ゆっくりとまぶたを上げた。

「……証明できるから」

 静かに言いながら、マッシュは顔をわずかに傾げて身を乗り出してきた。

 避けなければと思いながら、両の瞳に射止められたようにエドガーの体は動かなかった。息のかかるくらいまで間合いを詰められる、その短い時間が永遠のように感じられた。

 マッシュの鼻先が片頬をかすめた。覚悟していた感触は口唇ではなく頬に落とされた。ぴったりと押し付けられた唇は、慎ましく吸い付いたかと思うと小さな音を立てて離れていった。

 幼いころと大差ないような愛情表現に、身構えていたエドガーは状況も忘れて破顔した。

「これで何を証明――」

 続く言葉を発する間は与えられなかった。弟の唇によって、今度は口を縫い留められる。その瞬間、寒気のような、焦燥のようなざわめきが背骨を駆け上がった。思いを伝えるすべがそれしかないとでもいうように、弟は何度も兄の唇を求めた。

 それは作法としてはあまりに拙かった。しかしたったそれだけの触れあいが胸を衝き、次いで強い衝動を湧き上がらせる。湧き上がったのが嫌悪でなかったことにエドガーは愕然とした。

 この衝動の行き着く先をエドガーは知っている。即位し国にすべてを捧げる立場になる際に、自分の中で固く封じたはずだった。

 封じ込めたものに再び光をあてようとしているのが、間接的にではあるがきっかけを作った本人、それも実の弟になろうとは想像もしなかった。

「冗談じゃない」

 一方通行のぎこちない愛撫の合間に、震える声を媒介にして思考の続きが漏れた。一度言葉にしてみると、止めることはできなかった。

「俺の……俺の立場を知らないわけでもないだろ」

 軽く息を飲む音がして、マッシュの動揺が伝わってきた。

「その、兄貴からは何もいらないんだ。ただそばにいさせてくれれば――」

「それが通ると思ってるのか、本気で?」

 うつむいて吐き捨てるように言う。マッシュは口をつぐみ押し黙った。

「……すまない、マッシュ」

 ため息まじりにエドガーは詫びた。これでは八つ当たりだ。即位したばかりの十代のころに乗り越えておくべきだった感情を今弟にぶつけても何にもならない。

 それに、これ以上の深入りは互いのためにならないのは明白だった。エドガーは肩を掴んでいたままのマッシュの手に自分の手を重ねた。

「俺のことはもう大丈夫だ。そろそろ自分の支度をしてこいよ」

「なあ、兄貴は……」

 食い下がるマッシュをエドガーはやんわりと遮った。

「忘れろ、それが互いにとって最善だ」

 エドガーが振り払うまでもなく、マッシュの手は力なく落ちた。

 しばしのあいだ、マッシュは問いかけるような目でエドガーを見据えていたが、やがて無言で立ち上がり足早に部屋を後にした。

 

 一人になったエドガーは、再度寝台に背中を沈ませた。ぼんやりと天井を眺めながら口の中で呟く。

「違う……」

 自分の望みなどわからない。それでも、望ましい方向に進んでいないことだけは確かだった。与えられるものを拒絶し続けていれば、いつか与えられることさえなくなりすべてを失いかねない。理解しているはずなのに、どうすることもできなかった。

 目の奥が痛いほどの熱を帯びた。しかし涙は父が亡くなった夜にとうに枯れていて、ついにエドガーの瞳を濡らすことはなかった。