平原は、凪いだ海のように静かだった。
昼間この広大な大地を闊歩していたチョコボたちはそれぞれの主に連れられていったようで、今は一羽もいない。元々ここをすみかとする生き物たちは寝静まり、そしてめずらしいことに魔物の気配すら感じられなかった。『シン』の気配を敏感に感じとって、逃げ出してしまったのだろうか。
頭の後ろで手を組んで、一人草むらに寝転びながら、ティーダはそんなことを考えた。
『シン』との戦いを翌日に控えた一行は、ナギ平原の旅行公司で体を休めているところだった。朝、飛空艇が迎えに来るまでの休息だ。
早めに夕食をとり、明日の段取りを確認した後、今はめいめい好きなように過ごす時間だった。
頭上には吸い込まれそうな星空、背中を柔らかく受け止める草むら。仰向けになって、その二つに挟まれているティーダは、スピラに一人取り残されてしまったかのように錯覚した。
そんなひとりぼっちの空間に、草を踏みしめる音と静かな声が響く。
「いいのか、こんなところにいて」
ティーダはゆっくりと視線だけを移動させて、明るい月の光を頼りに声の主を探した。アーロンが数歩ほど離れたところに立って、暗いレンズ越しにティーダを見下ろしているところだった。
アーロンの言わんとしていることは理解でき、そしてもっともなことだった。ティーダがユウナのそばにいられるのは、あとほんのわずかな時間だけだ。そして実際、先ほどまで二人は一緒にいた。
ティーダはため息をついて、わかってるよ、と口を開く。
「でもさ、ユウナの前でどんな顔してたらいいか、急にわかんなくなった」
彼女の中に迷いを生じさせないためにも、自らを待ち受ける結末を、まだ打ち明けるわけにはいかなかった。一方で、大切な人に対してその事実を黙っていることはひどく不誠実なのではないかとも思う。その葛藤に飲まれそうになった。
そこをなんとかごまかし、すぐ戻るからとユウナに断ったうえでいったん外に出てきて、今に至るのだった。
「すぐ」と言うにはすでに時間が経ちすぎているかもしれない。今ごろ、ユウナは心配しているだろう。しかしティーダは、まだ彼女のもとに笑顔で戻れる自信がなかった。
「明日なんだよな……」
オヤジのところに行くのは。ティーダは声に出してみたが、そうしたところでその事実が現実味を帯びるわけではなかった。頭上の夜空が白んで、いつもと同じように日が昇れば、もうその時は来てしまう。
「なんか、信じらんないや」
ほとんど独り言のそれは、涼しい空気の中に漂って消えた。後に残ったのは、スピラ中のどこにもこれほど静かな場所などないと思えるほどの静寂だった。
そんな耳鳴りがしそうな静けさを破ったのは、アーロンの方だった。
「……ジェクトの苦しみも、俺の『生』も……明日お前が終わらせる」
そして、よく耳をすませていないと聞き逃してしまいそうな声で呟いた。
「――すまん」
ティーダは再度見上げたが、アーロンはまっすぐ前を向いており、その表情をうかがうことはできなかった。それでも、そこそこ長い付き合いだ。彼が今どんな顔をしているのかはだいたい想像がついて、思わず苦笑いが漏れた。
「あのさあ、あんた、いっつもそうだったよな」
おおげさなほどの呆れ声を出して、ティーダは続ける。
「言いたいことがあるならちゃんと言えって、さんざん人に言っといて、自分は素直じゃないんだもんなあ」
「何の話だ?」
視線にわずかに困惑をにじませてアーロンがティーダを見下ろしてくる。ティーダは勢いをつけて起き上がってから、草むらにあぐらをかいた。
「すまん、じゃなくてありがとう、って言いたいんだろ。ホントはさ」
サングラスの向こうにのぞく片目が、わずかに見開かれたように見えた。
「……なぜそう思う?」
尋ねられても、理屈ではないのだ。ティーダにはうまく説明できない。理由を深く掘り下げることを最初から放棄しているティーダは、ただ肩をすくめた。
「なんとなくわかるんだよ」
「そうか」
アーロンは短く鼻を鳴らして、再度前を見る。平原の先にある霊峰を、そしてそのさらに先――まるでスピラではないどこかを見据えるかのように、遠くに視線をやった。その横顔を、ティーダはただ見ていた。
このような会話ができるのも、きっと、今夜が最後なのだろう。
そう思った途端に目の奥がじわりと熱くなった。いつしかすっかり馴染みとなってしまった感覚に、ティーダは慌て、アーロンに背を向ける形で草むらにそそくさと横たわった。
少し後に、一連のようすを見ていたらしいアーロンの深いため息が背後から聞こえてきた。
「泣くにはまだ早いぞ」
「はあ? 泣いてないし」
反射的に答えたことがかえって裏付けになってしまったかもしれないと思えて、ティーダは若干後悔する。そちらからは顔が見えないのだから、泣いているかどうかなどわからないはずだ。そんな悔しまぎれの呟きに、アーロンは笑いを含ませながら応じた。
「わかるさ」
穏やかな声は、遠い昔を懐かしむかのような響きを持っていた。
それにつられるように、急にティーダの脳裏に船の家のリビングルームの光景がよぎった。
ザナルカンドの繁華街の人ごみの中を、手を引かれて歩いたことを思い出した。
胸を躍らせて見上げた、巨大なスタジアムの姿が鮮明に浮かんだ。
「ふうん……」
そっけなさを装うために短く応えてから、ティーダは目を閉じる。その拍子に、目頭から涙がひとつぶ転がり落ちた。
ユウナのもとに戻るには、やはり、もう少し時間が必要だった。