Longing for Escape

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 この部屋には時計がない。今が何時かは知る由もないが、日付がとうに変わっていることだけはわかっていた。

 明朝に備えて就寝、夜の見張り当番、酔いつぶれ。理由はさまざまだが、一人、また一人と去っていった結果、気がつけばファルコン号の談話室に残っているのはセッツァーとエドガーだけになっていた。

 ずっと膝を突き合わせていればさすがに話題も尽きてくる。ふいに沈黙が訪れたが、そう長くも経たないうちにエドガーがそれを破った。

「ひと勝負どうだい、キャプテン」

 上機嫌な声、なんの脈絡もない唐突なゲームへの誘い。正面に座るエドガーの表情に目を留めて、セッツァーは顔をしかめる。穏やかな笑顔の裏に何らかの思惑を感じ取ったのだった。

 エドガーはそんなセッツァーの反応を気にしたようすはない。空いた酒瓶とともにテーブルの端によけられていたカードの束から、一枚引いた。絵柄を確認して、セッツァーに向かって目を細めた。

「俺が勝ったら、きみのクルーのうちの一人をフィガロにくれないか」

 そう言ってエドガーが挙げたのは、ファルコン号の技師としてセッツァーが雇っている男の名だった。

 付き合いはそれなりに長い。最初に出会ったのはブラックジャック号の完成から一年余経った頃で、以来すっかりお抱え技師となっていた。ブラックジャックが大破したあの日以降消息がわからなくなっていたが、無事再会できたのは幸運としか言いようがなかった。

「引き抜きなら本人に直接言ったらいいだろ。破格の条件付きでよ」

「実はもう打診はした」

「さすが、手が早えな」

「かなりいい条件を出したつもりだが、全くなびかなかったんだ。だから雇い主……きみと交渉しようと思ってね」

 残念そうに肩をすくめるエドガーに、そうだろうとセッツァーは短く笑った。

「あいつはな、お堅く見えてお前以上の女好きなんだ。そりゃ男の口説きは通用しねえよ」

「どうりで」

「で? お前が勝ったらあいつはフィガロ行き、俺が勝ったら?」

 何を賭けるのかと問う。

「俺があのレベルのエンジニアを探すのにどれほどの時間と手間をかけたと思ってる。文字通り世界中飛び回って見つけたんだぜ」

 くわえタバコをしながら、セッツァーはグラスに手酌をした。向かいに置いてあるもう一つの空のグラスは見て見ぬふりをしたが、「俺ももう少しもらおう」と酒瓶を奪われてしまった。

「確かに……彼の仕事ぶりを見せてもらって、話もしたけど、あれほどのエンジニアはなかなかいないと思う」

「ああ、だからそれなりのものを提示してもらわないと、この勝負には乗れねえな」

 自らのグラスを半分ほど満たしたエドガーは酒瓶を置いた。ふむ、と腕を組み思案する。しかしたっぷり数秒使っても良い考えは浮かばなかったようだ。降参だといわんばかりに眉を下げ、困ったように笑った。

「……何がいいかな?」

 セッツァーは今度は呆れて鼻で笑った。それを対戦相手に直接聞く奴がどこにいる――喉元まで出かかって、ああ今目の前にいると思い直した。

 

 グラスの中身を口に含んだ。濃厚な酒が喉を熱しながらすべり落ちていって、ほぼ空っぽの胃も焼いた。かれこれ数時間はこうして酒を流し込んでいるが、セッツァーは酔うこともできずにまったく正気だった。

 それはこいつも同じなのだろうかと正面の男を盗み見る。同じくらいのペースで飲んでいるはずだが、へらへらとした顔にはほんのわずかな赤みもさしていない。外見から見極めるのは難しそうだった。

 タバコを口元へ持っていきつつ、何気なく視線を移動させる。またカードをもてあそびはじめた手元へとたどり着く。あれは、ガラクタからからくりをこしらえて子どもたちを喜ばせる手だ。カードだろうとコインだろうと、器用にイカサマをしてみせる指だ。言うまでもなく、工具や細かな部品の扱いには長けている。

 そんな散漫な思考の中でふと思いついたことを、セッツァーはそのまま口にしてみた。

「お前」

「ん?」

「俺が勝ったら、フィガロからお前をもらうってのはどうだ」

 エドガーは怪訝そうに眉をひそめた。

「いや……どうだ、と言われても」

 きみ、酔ってるのか? という見当違いな問いかけは無視してセッツァーは続ける。

「いくらクルーが優秀でも、今の体制じゃ維持管理で手一杯でな。思うように改良を進められていないのが現状だ。とにかく人員が足りない」

 もっともらしいこと――事実には違いないが――をもっともらしい顔で言う。まだセッツァーの真意をはかりかねているのか、いぶかしむエドガーの表情は変わらない。

「だが誰でもいいってわけじゃねえ。俺がこの船に乗せるのは、使えるエンジニアだけだ……」

 目の前の男の、戸惑いが浮かぶ瞳を見すえた。

「だから、『お前』」

 その時、一対の深い青色の中に、当惑とは別の何かがよぎった。

 突拍子もない話につきあわされたことに対する呆れとか、そういった類のものではない。かすかな高揚とでも言えばいいだろうか。

 例えるなら、引いたカードを見て、勝負の流れをどうやら自分が引き寄せている、そう直感した賭博師の目に宿る光。その直感が思いすごしではないかと一滴ほどの疑いを持ちつつも、抑えようもなく湧き上がってくる期待。今しがたセッツァーがエドガーの瞳の中に見たものとよく似ていた。

 しかしその正体をセッツァーが確かめる前に、「それ」はエドガーが何回か瞬きをした後、まぶたの裏へと消えた。残されたのはどこか腹の立つにやけ面だ。

「大女優の次は一国の王をさらうつもりか。しかも、いちエンジニアとして?」

 押し殺す笑いに声を震わせて、あの手紙の文面はよく覚えているよ、とエドガーは、いつぞやセッツァーがオペラ座に送りつけた「犯行予告」をそらんじてみせる。

 セッツァーは舌打ちし、エドガーの顔めがけて紫煙を吹きかけた。咳き込みまじりの苦情を浴びせられるが、それには構うことはない。いら立つ声のまま吐き捨てた。

「乗るか乗らないか、どっちだ」

 単純な二択を提示されて、エドガーは先ほどとは一転、読めない表情をしてセッツァーの目をまっすぐ見つめてきた。

 やがて三日月のように目を細めて、に、と笑んだ。

「――いいだろう」

 

 そこへ、どたどたと足音を立てながら、何者かが慌てたように部屋に飛び込んできた。

「いやいや、何乗せられてんだよ。兄貴」

「マッシュ」

 エドガーが振り返って弟を見上げるのと同時に、セッツァーは鼻を鳴らした。

「盗み聞きか?」

 マッシュのようすからして、しばらく部屋の外で話を聞いていたのだろう。彼はきまり悪そうに頭を軽くかいた。

「ごめん、でもなんか入っていきづらくてさ」

 そこでマッシュは、床に転がっている空き瓶に気が付いたらしい。まだこんなに飲んでるとは思わなかった、とぶつぶつ言いながら拾いあげテーブルの上に置いた。彼が夜の見張り番のためにこの部屋を出てからしばらく時間が経っていた。

「なあ兄貴、最近あまり寝れてないだろ?」

 マッシュはエドガーの肩に手を置き、顔を覗き込みながら言う。

「それなのにこんな遅くまで……俺、心配だよ」

 真に憂慮しているとわかる、どこか悲痛さすらにじむ声に諭されて、エドガーは言葉に詰まっている。

「うむ……そうやって言われると休まないわけにもいかないな」

 よっこらせ、と大げさな掛け声で、エドガーはテーブルに手を付きながら立ち上がった。

「じゃあお先に、セッツァー。よい夢を」

 軽く手を振って、ふらつくこともなくエドガーは部屋を出ていく。マッシュはその背中を追おうとしながらも、物言いたげな顔で軽くこちらを振り向いた。口を開きかけたマッシュを、セッツァーはさえぎった。

「さっさと連れて帰れ。あいつ、酔っちゃいねえが相当まいってる」

 かなりの量の酒を飲んでいるはずだが、思考や記憶力の鈍化は特に見られなかった。足取りもしっかりとしている。顔色も常と変わりない。

 酔って正体をなくすことができないというのは、今日のエドガーにとっては不運なことなのかもしれなかった。逃避先が一つ減るからだ。

 そう、きっと先ほどの「あれ」は、一種の逃避願望の表れだった。今になってセッツァーは考える。セッツァーの単なる思いつき――くだらない戯言に対して、例え一瞬であっても期待に目の色を変えるほど、確かにエドガーは望んでいたのだ。現状からの解放を、今ここにいる自分とは違う役割を与えられて生きることを。

 それほどまでに追いつめられる背景には何があるのか、セッツァーは知らない。一方で、彼の弟は当然すべて承知しているのだろう。マッシュはセッツァーの指摘に一瞬目を見張ったが、すぐに憮然とした表情になった。

「わかっててこんな飲ませたのかよ」

「飲ませたんじゃねえよ。ヤツが俺の酒を勝手に飲みやがったんだ」

 マッシュは深くため息をついて、視線をセッツァーから外した。

「まあいいや。セッツァーももう寝なよ、おやすみ」

 仲間の誰よりもおおらかなはずの大男が、今はどうだろう。まとう気も声も冷ややかで露骨に不機嫌だ。それが妙におかしくて、どうしてもからかってやりたくなった。

 セッツァーはわざと声を上げて笑い、広い背中に向かって、とどめに一言投げかけた。

「大変だねえ、弟ってのも」

 退出しようとする足を止め、マッシュは再度肩越しに振り返る。明らかに返答に困っているようだったが、やがて小さく苦笑いをこぼした。

「……誰のせいだか」