いのちの証明 - 2/2

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「結構食べたな」

「俺はまだいけるけどな」

「……すごいな、お前」

 別室のティナとセリスとは廊下で別れ、今夜泊まる部屋に二人で戻ってきた。

「まあ、それならかえって都合がいいか。思いがけず素敵な贈りものをいただいたからね」

 エドガーの視線は、マッシュの手の中にあるフルーツケーキの包みに注がれている。

「ただ……残念だが俺は一切れ全部食べきれる自信がないな」

 夕食の量があれほど多いとは思わなかった、と軽く腹を擦るエドガーを見て、マッシュは思いついたことを提案する。

「じゃあさ、一切れは俺たちで分けよう。で、残った三切れはティナとセリスと、あと明日飛空艇に戻るからリルムへのお土産にってことでどう? 日持ちするらしいし、大丈夫だろ」

 エドガーは、異論なしとばかりに「そうしようか」と軽く頷いた。

 

 交代で宿の湯を借りて身を清めた後に、備えつけの部屋着である木綿のガウンに着替える。

 ここまでくつろぐ体勢が整ってしまうと、緊張のほぐれた体に一気に睡魔が襲ってくる。しかしマッシュはそれを懸命に追い払い、準備を始めた。

 部屋の窓際にある小さな丸テーブルに食堂から借りてきた小皿を置く。そこにケーキを一切れ乗せて、フォークで半分に切った。水差しとグラスも一応用意する。そしてこれもまた借り物のワイングラス二脚と、未開封のワインの瓶。これだけで、小ぶりなテーブルは満杯になった。

 兄弟は、テーブルを挟んで向かい合わせの椅子に掛けた。瓶の栓を抜いて、中身を相手のグラスに注ぎ合う。満たされた杯を掲げて、マッシュとエドガーは同時に互いを祝福した。

「おめでとう」

 マッシュにはワインの良し悪しはからきしわからない。しかし今飲んだものは、口に含んだ途端に果実がそのまま凝縮されたような味わいが広がり、すぐに次の一口が欲しくなった。

「ああ……うまい。いいワインだな」

 エドガーがしみじみとそれだけを呟く。

 エドガーなら、この葡萄酒に関してマッシュ以上に的確な表現と評論ができるのだろう。しかし人はたぶん、あまりに美味しいものと出会うと、結局はひとつの言葉に至るのだ。そのことがわかってマッシュは少し安心した。

「さすがにあいつには何か礼をしないとな。どうするかな……」

 再度酒を口に含み、思案しながらエドガーは呟いた。

 このワインは、今朝四人が飛空艇を出発する前に、ロックがエドガーに対して渡したものだった。「マッシュと飲めば」という言葉とともにぶっきらぼうにエドガーの胸に押し付けられたそれは、かなり上等な部類に入るらしく、瓶を抱えてラベルをひと目見たエドガーは目を丸くしていた。

 そして、盗品ではないことを何度も確認して最終的にロックを怒らせていた。

「ロックは俺たちの……っていうか兄貴の誕生日を知ってるんだね」

「まあ、そうだな。ただあいつも、『フィガロの祝日だから』っていうことだけで覚えてるんだろう。俺からわざわざ教えたことはないから」

「それでも、こうして祝ってくれたんだ。しかもこれすげえ美味いし、いい酒なんだろ? 嬉しいじゃないか」

「……ああ、そうだね」

 友人ゆえにかえって気恥ずかしさでもあるのか、エドガーとロックはあまり素直な感情のやり取りをせず、むしろ双方皮肉を言ったり軽口を叩き合ってばかりいることのほうが多いように感じる。

 そのエドガーが、今は、柔らかく瞳を細めて、酒精でわずかに染まった頬を緩ませながら幸せそうに微笑を浮かべていた。マッシュは、その表情を無性にロックに見せてやりたくて仕方がなかった。レコードのように、人のなす表情のもっとも残したいと思える瞬間を記録できるすべが手元に欲しかった。

 母国の技術でなら何とかできないものだろうか。もっとも、その発想に至った理由を説明したら最後、エドガーは絶対にそのような技術開発には着手しないだろう。

 そういえば、とマッシュは、ロックの誕生日を知っているかどうか聞いてみた。

「せっかくだから誕生日に何かお礼したいなと思ってさ」

「そうだなあ、今度聞いとくよ。何か欲しい物があるかどうかも。あいつ調子に乗って無理難題をふっかけてきそうだが」

 それでも、負けず嫌いなエドガーは、ロックの望むものを躍起になって手に入れようとするのだろう。想像するとマッシュの口元が緩んだ。

 

 ワインはみるみるうちに減っていく。それだけでなく、半分に切ってもまだ存在感のあるフルーツケーキも堪能した。このまま眠りについたら甘く幸せな夢が見られそうだ。マッシュはそんなのんきなことを考える。

 ふと時計を見ると、サウスフィガロで件のレコードが流される時間はとうに過ぎていて、早い家庭では就寝の準備を始めるような頃合いになっていた。

「みんな、あのレコードちゃんと聞いてくれたかなあ」

「聞いてくれてるさ。そういうことにしておこう」

 万一聞いてもらえてなかったらさすがに寂しいからな、とエドガーは冗談交じりに笑った。

「なあ兄貴、城に戻ったらさ、あのレコード一枚俺にくれないかな」

 エドガーは怪訝そうに眉をひそめる。

「お前、録音にも演奏にも立ち会ってたじゃないか。必要か?」

 それでも欲しいのだ、とマッシュは首肯した。

 王の演説を聞こうとすると、どうしても会場となる町の中心部まで赴く必要がある。出奔した身であるマッシュにとっては城の関係者に見つかる危険があったのだ。そのため祭りのだいたいの雰囲気は体感できても、王の演説を聞く機会は、十年の間マッシュには無かった。

 そのことを説明したうえで、マッシュは呟いた。

「だからその十年間は本当に残念なんだけど……でも、今年はああやって記録に、『物』として残せただろ。大事にして何度も聴きたいんだ。その十年分を埋められるくらいに」

「……」

 一瞬返答に詰まったエドガーは、「もったいないからもっと飲め」とまだ少し中身の残っているマッシュのグラスにワインを勢いよく注ぎ足した。話題を逸らすか、すり替えようとしているのは明らかだった。

「ところで、声を吹き込むのは緊張もしたが結構楽しかったぞ。今度はお前もなにか吹き込んでみたら? たとえば、そうだな、ばあやとかに普段はなかなか言えないこととかさ」

「でも、しっかり残っちまうんだろ、それ」

「そりゃ音が固定されるんだからな、レコードに。そして後で、俺がばあやと一緒にそれを何度も聞く、と」

「やめてくれよ、恥ずかしい」

「さっきの俺の気持ちがわかったかな」

 エドガー流の意趣返しだったらしい。ほどよく酔いも回ってきたのかすっかり上機嫌のエドガーは、歯を見せて笑った。

 

 普段はなかなか言えないこと――そう言われてすぐに思い当たることがひとつだけある。目の前のエドガーに対しての言葉だった。

 どんな形であれ、こうして話題に挙がったのだ、良い機会なのかもしれなかった。今言ってしまおうかとマッシュの脳裏に一瞬よぎる。

 ただ、口にしてしまえば、この穏やかな空気が一変してしまう予感がしていた。緩やかな幸福を保ったまま誕生日の夜を終えるのは、マッシュとしては異存のないことだし、疲れているであろうエドガーにとってもそれが最善のように思われた。

 しかし――それでも、逡巡する。つかの間の穏やかさの中で忘れそうになるが、一日が終わるころにまだ自らの命があるかもわからないような日々を、自分たちは送っているのだ。ずいぶん旅慣れたとはいえ、それはずっと変わらない。

 それに、こうしてずっと隣にエドガーがいるのが当たり前だと思っていた。しかしそうではなかった。一度目は城を出た夜、そして二度目は世界が引き裂かれた日に思い知らされた。何か一つでも間違いが起こっていれば、「三度目」がありえたのかもしれない。そしてそれは無論、これから起こる可能性も捨てきれない。

 

 ――そこまで迷うのであれば、もはや答えが出ているのと同じではないのか。

 

 結論は出た。あとは行動に移す、それだけだ。マッシュは内心自分を鼓舞しながら切り出した。とはいえ発した声は自分が思ったよりも緊張していた。

「ええと……じゃあ、今ちょっとだけ、いいかな」

「ん? なんだ、予行練習か」

「そうじゃなくて、兄貴に言っておきたいことがあるんだけど」

「……どうした? 改まって」

 ずっと椅子に背をもたせかけてくつろいだ体勢だったエドガーが、真剣な表情になって姿勢を正した。

 心拍が速さを増して、手のひらが汗ばんできた。多大な照れくささがある。言った言葉がどう受け止められるのか、全く予想がつかない。

 それでもマッシュは、一言一言に思いを乗せるようにしてゆっくりと告げた。

「……生きててくれて、ありがとう」

 エドガーが目を見張り、何度か瞬かせた。

 その間、マッシュの全身を支配する鼓動以外には、無音だった。知らず知らずのうちに息をひそめ、エドガーの顔を見つめながら反応を待つ。

 エドガーが何か言おうとして、軽く口を開いた。その口角が徐々に吊り上がっていくのを見た瞬間、マッシュは思わず椅子から勢いよく立ち上がっていた。

「なっ、なんだよ、俺はすっごく真面目に言ったんだけど」

 頬が熱い。エドガーから見れば、ひどく赤面しているように見えるだろう。

「お前は、本当に……」

 最も気になるその先は言わないまま、エドガーも立ち上がりテーブルを後にする。そして部屋に二つあるうちの手前の方のベッドに腰掛けて、マッシュに軽く手招きをした。

 決死の思いで発した言葉を笑われたことと、幼い子どもを呼ぶような動作に強い不満を覚えつつも、マッシュは逆らわずそちらへと向かった。

 エドガーの隣に軽く腰を下ろしたその瞬間、勢いよく押し倒されるようにして、マッシュはエドガーの隣でベッドに横たわる体勢になっていた。

 向かい合って寝転ぶエドガーが、に、といたずら好きの子どもの顔で笑った。呆れたが、マッシュもつられて笑みがこぼれた。

「……なんだよ、あれでもう酔っちまったのか。弱くなった?」

「そうかもね」

 言いながらエドガーは、マッシュに顔を近づけてくる。互いの鼻先を擦り合わせるようにしてから、マッシュの鼻の頭に、可愛らしい音を立ててキスをした。

「そう、すっかり弱くなっちまった」

 そしてもう少し上のほうに首を伸ばし、たどり着いた先、額にも小さなキスを落とした。

「そういうことで、酔っている俺の話も聞いてもらおうかな」

 また少し笑みを含んだ声で言った直後、エドガーはマッシュの頭を自らの胸にかき抱いた。

「う、わ。ちょっと、何だよ」

「聞こえるか?」

「え?」

「心臓の音」

 マッシュは頭の位置を調節し、エドガーの胸に耳を当てて目を閉じた。

 薄手のガウン一枚を隔てて、生命の証である振動が、とくん、とくんと何度もマッシュの耳を揺らした。

「お前の言うように俺はこのとおり生きてる。運良くね。そしてお前も生きていた、奇跡的に」

 頭上から重いため息が落ちてくる。

「でも、俺はまだそれを信じきれていない」

 その言葉の意味が理解できなかった。詳しく尋ねようとしてエドガーの表情を見上げようとしたが、抱き寄せてくる腕に強く力がこもり、マッシュの頭の位置を固定しようとしてくる。

 表情を見られたくないのだろうか、とマッシュは推測した。

「信じられない、とはまた少し違うか……『わからない』といった方が正確なのかな。常に何か、ぼんやりとした薄い膜に覆われてるみたいで、現実味がないとでも言えばいいか」

 考えを整理しながら話しているのか、エドガーにしてはめずらしくゆっくりとしたペースで、時折短い沈黙が挟まることもあった。

「だから、たまに本当に突拍子もないことを考える時がある――もしかしたら俺は『奴』の幻覚魔法か何かにずっとかかっていて、お前が生きていたのも、レコードを作ったのも、今日祝ってもらったのも全部、全部都合のいい夢で、本当は城もずっとあのままで、俺は――」

 紡がれる言葉は、途中からはマッシュに向けられたものというよりも、うわ言のようにぼんやりと漂っていく。しかし最後の部分で、エドガーは白昼夢から急に覚めたように言葉を切った。そして自らのことを鼻で笑った。

「……ばかげてるよな。頭では理解しているんだ。でも、全部が変わったあの日からずっとこうだ。自分の立っている場所が、皆が、お前が……あるいは俺自身が、ある日突然なくなりそうな感覚が消えない」

 かける言葉が見つからない。とはいえ、否定も前向きな言葉も、今は何の意味も持たないとわかっていた。

 エドガーが深呼吸をする。頬をくっつけている胸板が大きく上下した。

「なあ、マッシュ」

 とても静かな声だった。その整いすぎた静けさは、かえって、何かを必死に取り繕っていることの確信をマッシュに持たせる。

「だから俺は、確かな証明が欲しいんだ」

 証明。口の中でマッシュは繰り返す。

「俺もお前も今生きてここにいて、それが間違いなく現実であることの、証が欲しい」

 ふいに、エドガーの腕の力が緩んだ。表情を見る許可を得たのだと解釈したマッシュは、ゆっくり視線を上げた。自分の方を真っすぐに見下ろしているエドガーと目が合った。

 エドガーはほぼ無表情でどこかぼんやりとしているように見えた。ひどく疲れている、という表現が最もしっくりきた。その瞳を覗き込んでみても、感情で揺れているようすは特に見られない。ましてや涙など一滴も流れることはなさそうだった。

 しかし、よく知っている色合いの目の奥をじっと見つめているうちに変化が訪れた。エドガーの眉がかすかに苦しそうにゆがんだ。

 マッシュ、とエドガーがもう一度囁く。そこにはもう、計算された冷静さも、覆い隠すためのおどけや皮肉もない。

「欲しいんだ」

 短い言葉が、助けを求める響きでわずかに震えた。

 自国民や仲間たちを導き、鼓舞する一方で、深層を全く見せてこなかったエドガーの苦しみはいかほどのものだったのだろうか。そして、他の誰でもない自分――あらゆる根拠から、エドガーの全幅の信頼を得ているという自負がある、そんな自分でさえ、ここまでたどり着くのにこれだけの時間を要した。これらふたつの想像と事実が、マッシュの胸を鋭く刺した。

 感情が入り乱れ、濁流のように押し寄せてきた。目の奥が急激に熱くなり視界がぼやけそうになる。しかし仮にここで涙を見せてしまったら、エドガーの意識はきっと弟を気遣う方へと向いてしまう。そしてそれはマッシュの本意ではなかった。

 涙を懸命に堪えて、マッシュはエドガーの目を見つめながら、ゆっくりと頷いた。

「その前に少しだけ……待ってて」

 マッシュはいったんベッドから起き上がり、窓際の丸テーブルへと向かった。

 そのままになっていた食器類をまとめて、明日少女たち三人に渡すケーキを包みなおし、残ったワインに再度栓をする。簡単な片付けの手順をこなすことで、自らの感情を整理する時間を作った。

 そして、大きく深呼吸をしてから室内のランプを消した。途端に、閉まりきらないカーテンの隙間から細く差す月光以外には何も見えなくなる。それでも徐々に目が慣れてくれば、エドガーが待つ寝台までまっすぐにたどり着けた。

 エドガーの隣に再度寝転んで、その温かい頬を両手で包み込んだ。無言のまま顔を近づけていく。鼻先が軽く触れた。エドガーは疲れのにじんだ目をそっと閉じてマッシュを受け入れた。

 固く結ばれた口唇に、自らのそれで軽く触れる。いたわるように、なぐさめるように、やわらげていくように、何度も重ね合わせた。

 やがてエドガーがわずかに唇を開いた。それが合図であったかのように、穏やかだった口づけは、徐々に湿度と深さを増してその意味合いを変えていく。

 その合間に、マッシュはエドガーの体を強く抱き寄せ、耳元に唇を寄せた。

「あげるよ、全部」

 入ることを許された中の粘膜を何度も舌で撫で上げて、口内は濡れているはずなのに、発した声は掠れていた。エドガーの全身に行き渡らせるように、ゆっくりと声を流し込んでいく。

「だから俺にも全部くれよ。隠さないで、全部見せて。そしたら絶対にわかるから。夢でも幻なんかでもない、俺たちが今、ちゃんとここにいるってことがさ」

 エドガーが一回だけ頷く気配がした。マッシュの背中に回った両手が、幼子のように強くすがりついてきた。

 
 

「……あ、でもなるべく静かにな。隣の部屋に二人がさ……」

「……わかってるよ、さすがに」
 
 薄闇に、ささめきと衣擦れの音が密やかに溶けていく。それを最後に会話は途絶えた。証明に言葉は要らなかった。