「なんであいつはあんなに元気なんだ……?」
息を切らせ、ぼやきながら、エドガーはこの村で唯一葉を茂らせている大木の根元に腰を下ろした。視線を向けた先には、モブリズの遊びたい盛りの子どもたちとガウを相手に、全力の鬼ごっこを繰り広げるロックの姿があった。エドガーも先ほどまでそれに付き合っていたのだが、すぐに音を上げてしまった。
理由はわかっている。この旅の前はほとんど毎日執務机に向かっていたエドガーと、宝を求めて世界中を飛び回っていたトレジャーハンターとは体力が段違いに決まっている。
――いや、たぶん、そうではないだろう。とエドガーは今の自分の考えを打ち消す。断じて、体力差などではないと思いたい。
そもそも、いつもの甲冑を身に着けたままで走り回ったのが間違っていたのだ。今更気づいたエドガーは、マントを外し、胸を守る甲冑を脱ぎ軽装になった。そうするといくぶん楽になる。爽やかに吹き抜ける風が、汗をかいた身に心地よかった。
そこへ、子どもたちとロックと一緒に遊びに興じていたはずのガウが、何かを手に持ってエドガーのほうへとやってきた。
「やあガウ、君もひとやすみ?」
首を横に振り、まだ少し息を切らせているガウは飲み物の入ったコップを差し出してきた。
「ガウつかれてない! でもエドガーつかれてるから、ティナがこれもってけって」
「ほう、これはありがたい」
どうやらティナが気を利かせてくれたらしい。受け取ったコップの中身は冷えたレモネードだった。子ども向けに砂糖を多めにしてあるが、爽やかな酸味が疲れを直接癒やしてくれるようで、ばてていた体にはありがたかった。喉が渇いていたので、一口、二口と続けて流し込む。
そして三口目を飲もうとした時に、ガウがじっとこちらを見つめているのに気がついた。
「飲むかい?」
エドガーが美味しそうに飲んでいるのを見て、自分も飲みたくなったのだろうか。コップをガウに差し出してみる。しかしガウは首を横に振った。視線はまだコップにあった。
「で、でもガウまだつかれてない。だからまだいらない」
エドガーは、走り回っていたために汗をかき真っ赤になっているガウの頬を見て苦笑した。
「遊び始めてからまだ一度も休憩してないじゃないか。そろそろ喉も渇いただろ? 飲み物は私がもらってくるから休んでなさい」
立ち上がり、ぽん、と軽く肩を叩いてやると、ガウはしぶしぶといったようすで大木の幹に背を預け、両脚を投げ出して座った。それを確認してから、エドガーはティナのいる家屋へと向かった。
ガウの分と、ついでに自分のおかわりのレモネードのコップを両手に大木へ戻ると、少年の目は閉じられていて、エドガーが間近に来ても開かない。やはり疲れていたらしく、眠ってしまっているようだ。
「ガウ」
隣に座り込んだエドガーは、自分のコップをいったん地面に置いてからガウの肩を軽く叩いた。ガウはぱっと目を開けて、エドガーの手の中にあるものを見るなり目を輝かせた。
「待たせたね」
「ありがと」
エドガーの記憶では、出会った当初この少年はいたずら好きの生意気盛りだった。しかしいつの間にかこうして素直に礼も言えるようになっていた。仲間たちから良い影響を受けているということなのであれば、良いと思う。
それと同じくらい悪い影響も受けていなければよいが。エドガーは賭博師や泥棒の顔を思い浮かべた。自分のことは棚に上げた。
コップを受け取り、さっそく嬉しそうに中身を口に運んだガウは、一瞬目を見開いて口をすぼめた。
「すっぱい!」
しかし少ししてから、不思議そうに目を瞬かせた。ガウは、今度は慎重にゆっくりとレモネードを飲み下す。それは特に功を奏さなかったようで、再び、酸っぱいものを食べた時のお手本のような顔をしながら呟いた。
「すっぱいのにあまい……けどやっぱりすっぱい」
素直で新鮮な反応に、エドガーは思わず吹き出してしまった。
「レモネードっていう飲み物だよ。その名の通りレモンという果物から作られている」
「レモン」
果物の名前をガウは復唱する。そしてエドガーのことを、覚えたての言葉で表現した。
「エドガー、たまにレモンみたいなにおいするぞ」
「そうかい?」
おそらく香水のことだろう。柑橘系の香りを主とした香水はいくつか持っているので、そのうちのどれかだろうか。
ガウはエドガーのほうに身を寄せ首を伸ばし、鼻をすんすんと鳴らし始める。
「それだけじゃない……今はちょっとあせのにおいもするけど、しょくぶつとか、レモンじゃないくだもののにおいとか……うう、なんかごちゃごちゃしてるぞ」
香水の芳香の表現としてはあんまりだった。調香師が聞いたらどんな顔をするだろう。エドガーはこらえきれず声を上げて笑い、自らも素直な感想を口にした。
「そう聞くとあんまりいい匂いじゃなさそうだねえ」
「でも……ごちゃごちゃのずっとおく、いちばんおくはおんなじにおいがする」
「同じ?」
「マッシュとおなじにおいだ」
急に出てきた弟の名にエドガーは面食らった。そこまで嗅ぎ分けられるガウの嗅覚と、身体的な感覚における記憶力への素朴な驚きだった。自分たちではわからないが、血の繋がった者どうしに共通する匂いがおそらく彼にはわかるのだ。
すん、とガウはもう一度鼻をひくつかせた。曇り一つない丸い瞳がエドガーを見上げる。
「エドガーとマッシュはかぞく、だよな?」
エドガーが頷いて答えると、ガウは軽く首を傾げながらさらに尋ねた。
「おなじにおい……それが、かぞく、なのか?」
「同じ匂い」、つまり血の繋がりこそが家族であることの証明なのか。おそらくそんな趣旨の問いだろう。
そして、その問いに思考が一瞬止まったことは否定できなかった。ガウは、先日肉親との再会を苦い形で終えたばかりだ。そんな彼に返すべき答えが、かけるべき言葉が思い浮かばなかった。
通常、エドガーにとっては、相手が期待する答えを提供するのはたやすいことだった。たいてい話している内容や相手の声の調子、表情、しぐさから、相手が望んでいるであろう言葉を推測できるものだ。しかしこの少年が今、エドガーに対してどのような答えを期待しているのかが皆目見当もつかない。
あるいは、ただ純粋に、疑問に対応する答えを知りたいのだろうか。その方がエドガーにとってはより難しかった。
突然黙り込んだエドガーを、ガウが不思議そうな顔で覗き込んでくる。
その日に焼けた顔の向こう側に、ふと、ティナとカタリーナが家から出てくるのが見えた。エドガーの視線はそちらに吸い寄せられる。
ティナが、子どもを身ごもっているカタリーナを支えるようにその隣をゆっくり歩いて、庭に置いた椅子を引いて彼女を座らせる。そして自らも隣の席に座った。
それから少し遅れてディーンが慌ただしく家から飛び出してきた。たくさん積み重ねられた子ども用カップと、レモネードで満たされた大きなピッチャーを抱えている。それらを庭のテーブルに並べて、不器用な手付きで小さなカップに次々と注ぎはじめた。それを見た子どもたちが、一人また一人と追いかけっこを中断してテーブルへと集まり始める。ティナとカタリーナはその光景を穏やかに眺めていた。
ふいに、テーブルの上にあったカタリーナの手に、ティナの手がそっと乗せられ、安心させるように軽く握る。二人は目を合わせて微笑み合い、一言二言軽く会話をしたようだった。
その光景を見ていたら、言葉が勝手に口をついて出てきた。
「血が繋がっていようがいまいが……当人たちが家族になりたいと望んだり、そう認識しているのなら、そこには『家族』がある……たぶん……そう、なのかな」
――今のは、為政者としての自分が軽々しく出すべき答えではなかった。声に出した直後に気づき、ガウ以外に聞いていた者がいなかったことに心底安堵した。
脈々とした血の繋がりによって国は存続し繁栄していく。よって国家の基礎を形作るのは、基本的には血縁のある家族だということになる。それが「王という立場のエドガー」にとっての「正解」だった。しかし今しがたエドガーが言ったことは、その建前と真っ向から矛盾していた。
「うう?」
顔をしかめて首を傾げるガウの声に、エドガーははっとして視線を戻した。
「悪いね、なんだか難しい話になってしまったな」
「むずかしいはなしをきくと……ねむくなる」
あーあ、とガウは大きなあくびをして、突然、あぐらをかいていたエドガーの膝に頭を乗せて仰向けになった。膝をどけるのはもちろん下手に体勢を変えることもできず、エドガーは内心戸惑う。
一方でガウは、さも当然のようにエドガーを見上げてきた。そして、またあくびをひとつ。すでに半分夢の中にいるように呟いた。
「マッシュは……ガウがつかれたらいつもこうしてくれるぞ」
「私はマッシュじゃないんだがなあ」
「でも、におい……おんなじだから……」
もごもごと不明瞭な言葉が断片的に聞こえたしばらくの後、エドガーの予想通り、ガウは寝息を立て始めた。エドガーは深くため息をついた。
「あいつ、甘やかしすぎだな」
飛空艇に戻ったら弟に注意しておこう。そう思いかけて、しかしガウの寝顔を見ていたら、別にそこまで目くじらを立てる必要もないのではないかという気もしてきた。
それに、自分もなんだか眠くなってきた。
エドガーは先ほどまで考えていたことをいったんすべて頭の外に追いやってしまって、少年の穏やかな寝息につられるように、小さくあくびをした。