「本当に助かるわ。一人でやると結構時間がかかるから」
「なあに、これも鍛錬の一環になるから、俺は大歓迎だよ」
早朝の、まだほんのりと薄暗さが残るモブリズは冷たい空気に包まれていた。空は薄灰色の雲に覆われている。今日も太陽は顔を出さないだろう。
そんな中マッシュとティナは、それぞれ桶を手に持って井戸から汲んできた水を運んでいた。それを家屋の中の、大容量を溜めておける大きな桶へと流し込む。料理や洗濯など、朝の炊事に使うための水を今のうちから準備しているのだ。
モブリズは壊滅状態だったが、井戸がまだなんとか使える状態で残っていたのは不幸中の幸いだった。
ティナによると、井戸水自体も調べたが、特に汚染はされておらず、飲んだり体に浴びたりしても特に異常はなかったらしい。水源が無事だったことは、ティナとここに暮らす子どもたちにとっては何よりも大きかったにちがいない。マッシュは澄んだ井戸水で満たされた桶を運びながらしみじみ思う。
「それにしても……リルムはともかく、セッツァーもこんな時くらい早起きして手伝えばいいのに」
ぶつくさ言うマッシュに、ティナは小さく首を振った。
「セッツァーはここまで飛空艇を飛ばしてくれたし、リルムは子どもたちの相手をして遊んでくれてる。それだけでもう、十分。それに――」
「それに?」
「セッツァーが早起きしてるところを想像できないわ」
実際、ティナの指摘は的を射ていて、セッツァーは仲間内でも最後に起きてくることが多かった。しかしそれを大真面目な顔つきで言われるとなんだか無性に可笑しい。マッシュは思わず吹き出し、そのまま大声を上げて笑った。
それにつられたのだろうか、ティナの顔も徐々にほころんでいく。
「……手伝ってくれてありがとう、マッシュ」
こうした時、少し前のティナは「ごめんなさい」といった謝罪や恐縮の言葉が先に来ていたが、近頃はそうでもなくなってきた。
いい傾向だ。マッシュは再度からりと笑って「どういたしまして」と応えた。
とはいえ、マッシュはすでに普段行っている朝の鍛錬をこなした後なので、少しばかり腕がだるくなってきた。なるべく早く終わらせようとして作業をしていたが、少しだけ一息つくことにした。
ふう、と息を吐いて、ふと目をやった地面に、気になるものを見つけた。
「……これって……」
しゃがみこんでよく見てみると、ここは元は花壇だったようだ。囲いのブロックはぼろぼろに崩れ、ほとんどの花が焦げているか枯れてしまっているが、ごく一部、まだ生きているかのように色を保っている花がある。
そのうちの一輪に、よく見知った花があった。五枚の花弁のうち、三枚はすでにからからに枯れてしまっているが、残りの二枚は未だに青色を保っていた。
「マッシュ、どうしたの?」
いつの間にか背後に来ていたティナが声を掛けてきた。マッシュが座り込んでいたからか、心配して見に来たのだろう。
「ん? ああ、見たことのある花だな、と思ってさ。これ」
言いながらその花を指すと、ティナもマッシュの隣にしゃがみこんで、まだ少し生きている花に優しく触れた。そこで彼女は、何かを思い出したように小さく声を上げた。
「これ……もしかして、コルツ山の小屋に飾ってあったのと同じお花?」
まさかティナからその答えが出るとは思わず、マッシュは面食らった。
「え……まあ、そうなんだけど、あの小屋に入ったのか?」
「ええ……エドガーがね、マッシュが近くにいるかもしれないって探していた時に、ちょっとおじゃまさせてもらって」
「……そうだったんだ。それにしてもよく覚えてたなあ、花瓶の中身なんて」
「あの時のエドガー、お花を見て何か考え込んでたの。だから印象に残ってて」
「へえ……」
初耳だった。
とすると、城を出る時に半ば無理やり持ってきた茶器なども、もしかしたらその時見られてしまったかもしれない。そう考えるとなんだか急に恥ずかしくなってきた。とはいえ、さすがに食器棚の中までは見ていないだろうが――
マッシュがいまさら妙な心配をしているとはつゆ知らず、ティナは枯れきっていない花をじっと見つめながら尋ねた。
「マッシュ、このお花好きなの?」
「まあ、好きといえばそうかなあ」
この花は、マッシュの認識では、主にサウスフィガロ地方で咲くもので、特に珍しい植物というわけでもない。比較的育てやすいので、サウスフィガロの町の花壇にはよく植えられていた。マッシュのように野生のものを摘んできて家に飾る者もいた。
マッシュにとっては幼少のころからずっとそばにあった花だった。城にもよく飾られていたし、ばあやがその花でリースを作るのを手伝ったこともある。だから、「好き」というのとはまた少し異なるかもしれないが、幼い頃からずっと慣れ親しんできた花であることに間違いはなかった。
「これ、フィガロでは結構よく見る花なんだけどさ、あそこらへんにだけ咲くもんだと思ってたんだ。モブリズにも咲いてたのは、以前ここに来た時は気づかなくて……いまさらながらびっくりしちまってさ」
「そうだったのね……ねえ、このお花、名前はなんていうの?」
「こいつの名前か? ええっとな……」
腕を組んで目を閉じ、記憶をたぐり寄せる。しかし数秒経っても思い浮かんでくる名前がない。若干の気まずい間が流れた。
二人が黙り込んで十秒を経過したくらいのところで、マッシュは白旗を上げた。
「ええと……忘れた」
「……好きなお花なのに?」
心底残念そうな表情をする少女の正論が、耳に痛い。
しかし、その名前をあえて意識しないほどに、マッシュにとっては馴染みのある故郷の花なのだ。エドガーとの間でも「あの花」と言えば通じていたくらいには。それは今でもきっと変わらないはずだ。
「悪いな、ティナ。今度フィガロに戻った時にちょっと調べてみるよ。それか兄貴に聞いた方が早いかも」
「わかった、じゃあまずはエドガーに聞いてみるね」
ティナにぜひそうしてくれと頼んだが、仮にエドガーの認識も「あの花」どまりで名前までは覚えていなかったら、兄弟そろって面目次第もない。もしそうなったら、城に戻った際に図書室で植物辞典をめくる作業に明け暮れるか、ばあやにすがりつくことになるだろう。
「ところで、サウスフィガロにはこのお花の種は売っているのかしら。あと、肥料とか」
ふとティナが、軽く首を傾げる。
「たぶん売ってはいるんじゃないかな。でも、今植えても芽すら出るかどうかってとこなんじゃないのか?」
そのことはマッシュよりも、ティナのほうが身をもって実感しているはずだ。
世界が一変した日以来、肥沃であった土地も養分を失い、枯れ始めているという話だった。
それに抗うようにして、彼女はこの村に緑を取り戻そうとしている。花壇と、食料を少しでも自給できるようにするための菜園をどうにかして作ろうとしているのだ。彼女は静かにマッシュの言葉を肯定した。
「そうね。でも、またどうにかしてきれいに咲かせたい。そのためにできることは全部試したいの」
わずかに残された鮮やかな青色の花弁を、細い指先がそっと撫でた。
「それが少しでもなぐさめに、力になるのなら」
ティナの視線が、家屋の方へとゆっくりと移った。
子どもたちはきっとまだ、暖かな寝具に包まれて、優しく穏やかな夢の中で眠っている。