Adore, and More

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 エドガーを追いかけた先、宿の裏口のドアを開けると、夜の冷気が鋭く流れ込んできた。マッシュは小さく身を震わせる。

 世界が一変したあの日を境に、空は厚い雲に覆われることが多くなり、陽が射す時間は格段に少なくなった。しかし今日は日中、珍しく太陽がのぞいたのだった。今は薄雲の向こうに星々が見えている。

 マッシュは、久々に目にする星空を少しの間楽しんでから、傍らの石段に腰かけているエドガーへと視線を移した。

 すぐ側の街灯に、横顔がしらじらと照らされている。夜風に冷まされたのか、先ほどマッシュが見たときよりも頬の赤みは引いていた。マッシュはドアをしっかり閉めてからエドガーの方に歩み寄り、隣に腰かけた。

「挑発に真正面から答えてどうするんだ」

 マッシュの方を見ないまま、エドガーは低い声で先ほどのマッシュとセッツァーのやりとりに言及する。怒っているわけではなく、ただの恨み節――要するに照れているのだとマッシュにはわかっている。

 女性に対して聞いている方が恥ずかしくなるほどの賛辞を並べる一方で、エドガーは自分が似たような行為の対象となることを嫌がる。

 マッシュとしても、本人に対してそういったことを進んでやろうとは、あまり思わない。照れくさくて仕方がないからだ。先ほども、エドガーが聞いていたことさえわかっていれば、もっと別の表現を選んだはずだ。そんな八つ当たりめいたことを考えた。

 いずれにせよ、別に嘘や悪口を言っていたわけでもない。マッシュは開き直って胸を張った。

「本心を言って何が悪いんだよ」

 エドガーがマッシュの方を向く。一瞬、視線が合った。しかし顔をうつむき加減にしながら再度正面に向けたエドガーは、頭を抱えるかのように額に片手を当てた。

「本当に、たちが悪い……」

 ため息まじりに呟いて目を伏せる。横顔が、先ほどまでの色を取り戻していくように見えた。

 普段人前で注意深く表情をコントロールする兄は、マッシュの前ではその制御をいくらか解いているようだった。そして感情が高ぶった時は、頬から耳、そして首筋が赤く色づいていく。そのさまをマッシュは何度も目の当たりにしてきた。

 その赤く染まった肌を見ると、マッシュは無性にエドガーに触れたくなる。

「……兄貴さ、なんで外に出てきたんだよ」

 その言葉の意図を問う視線が、エドガーから送られる。マッシュは辺りに聞いている者がいないか十分確認してから、それでも用心深く声を落として呟いた。

「ここじゃ、抱きしめられないだろ」

 また気恥ずかしいことを言っている。そんな自覚はあったが、言わずにはいられなかった。

 案の定、エドガーは困ったような、呆れたような表情を見せる。しかし次の瞬間、マッシュの予想に反し、くすりと笑った。

「じゃあ部屋に戻るか」

 笑みを含んだ瞳がマッシュをまっすぐ射る。少しだけ掠れた声でエドガーは続けた。

「セッツァーは放っておいて、先に二人で戻ってようか」

 エドガーの声から、言葉から、表情からかすかに、ひしと感じられる熱が、マッシュの体温を急速に上昇させる。心臓がうるさく駆けて、その存在を突然主張し始めた。

 魅力的な提案にぎこちなく頷きながら、マッシュは無意識に喉を鳴らしていた。そして、抱きしめられなくても、手を握るくらいなら許されるだろうか――そう考え、ゆっくりとエドガーに手を伸ばした。

「冗談だ」

 しかしエドガーはすっくと立ち上がりマッシュの手をかわした。

「今日はさすがに、な」

 からりと笑って、さて酒を平らげられる前に酒場に戻ろうと意気揚々とドアに向かう姿に、先ほどの温度は全く感じられない。あまりにあっさりとした切り替えに、マッシュはあっけにとられた。

「あのさ……兄貴のがよっぽどたち悪くないか」

 やっとのことで発した言葉を、エドガーは軽やかに受け流す。

「聞こえないな」

「ほら、そういうところも……」

 そういうところもたちが悪くて、そして好きで仕方がない。そう言いかけて、すんでのところで飲み込んで、マッシュはエドガーの背中を再度追いかけた。

 

「なんだよ、早かったな」

 一緒に酒場のテーブル席へと戻ったマッシュとエドガーを、セッツァーはどことなく残念そうな声で迎えた。

「コイツは俺が片付けとくから、先に寝ててもいいんだぜ」

 セッツァーが指の関節で酒瓶を軽く叩きながら言う。その言葉に、座ったばかりのマッシュはこれ幸いと頷いて、隣席のエドガーの腕を軽くとりながら腰を浮かせた。

「じゃあ、遠慮なく」

「こら」

 しかしエドガーは、おかしそうに笑いながらマッシュの手をやんわりとはがした。

「お前らばかり飲んで……俺にも少しくらい飲ませてくれたっていいだろう」

 先ほどの仕返しか何かだと思われているのかもしれない。マッシュとしてはこれ以上ないくらい真剣だったのだが。

 マッシュは内心ため息をつきながら、あきらめて再度腰を落ち着け、飲みかけのグラスを手に取った。