夕暮れどきのマカラーニャ湖では、本格的に雪が降りはじめていた。
もともと寒冷な地だが、この日は特に冷え込みが厳しかった。外を歩く者はみな、何重にも着込んだ上着の襟元を寄せて、足早に目的地を目指す。この日ばかりはリンも、仕事上どうしても必要な場合を除いては、なるべく旅行公司の建物から出ないようにしていた。
そのような中、旅行公司の入口の扉を蹴破らんばかりに駆け込んできた男を見て、リンは思わず眉を上げた。
日に焼けた肌、入れ墨が彫られているらしい上半身には、上着も何もかかっていない。下手をしたら凍傷を起こしてしまいかねない。
男はカウンター内にいるリンに声をかけるでもなく、まっすぐ暖炉へと駆け寄り、その真正面に陣取った。
「あっ……たけえー」
大きく独り言をこぼしながら、赤いバンダナを巻いた頭を軽く振って、髪の毛から雪を払い落している。
その少し後に、開け放たれたままだった扉から二人の男が続いた。赤い上着を片方の肩だけに羽織った黒髪の青年と、法衣と思われる重そうな衣装を着込んだ男が暖炉の方へと歩み寄っていく。
「ったく、なんなんだよここは。凍え死ぬかと思ったぜ」
むき出しの腕を手で擦りながら、最初に駆け込んできた男が苦々しげに言う。それを受けて、黒髪の青年が呆れたように鼻で笑った。
「そんな格好でいれば当然だ」
「あ? てめえだって大して変わんねえだろ」
「全然違うだろう、一緒にするな」
「つうか寒くねえのそれで?」
「きさまとは鍛え方が違う」
「あっそ。まあナントカは風邪ひかねえって言うし、寒さにも鈍感なのかねえ」
「なんだと?」
応酬しにらみ合う二人の間に、今にも掴み合いの喧嘩が始まりそうな雰囲気を察知する。リンは表情を動かさないまま、内心ため息をついた。
今日は、このマカラーニャ湖支店の責任者が出張で不在だった。今この店内に詰めているのは、他店からの応援で来ているリンの他には、後輩の店員とアルバイト数名だ。万が一何かあればリンが責任をもって対処しなければならない。
面倒ごとは勘弁してほしい――そんな一心で、本格的ないさかいになる前に仲裁に入ろうと、カウンターを回り込もうとする。
しかし結果として懸念は杞憂に終わった。法衣の男が、青年の肩になだめるように手を置いて口を開く。
「まあまあ……私としては、二人とももっと厚着してほしいところだ。見ているだけで寒いよ」
言われた青年は、ぐ、と言葉に詰まる。そしてそのままきまり悪そうな顔で押し黙った。そのさまを、バンダナの男がにやにやと楽しそうに眺めている。
やりとりが途絶えたそのタイミングを見計らい、リンは一行に声をかけた。
「いらっしゃいませ」
青年が、はっと我に返ったような顔をしてこちらを見た。そして財布代わりだろうか、懐から小さな麻の袋を出しながらカウンターへと近づいてくる。
「……騒がしくしてすまない」
リンと同年代と見えるこの青年は、先ほどの、噛みつかんばかりに激昂したようすから一転、恥じ入るような苦々しい表情を浮かべている。
「いえ、大丈夫ですよ」
リンが笑みを浮かべながら言うと、青年の眉間のしわは若干やわらいだ。
「二部屋空いていたらお願いしたい」
「かしこまりました、すぐご用意いたします」
「アーロン、私は三人一緒の部屋で構わないが」
いつの間にか青年の背後まで来ていた法衣の男がそう呼びかける。しかし青年は、きっぱりと言い放った。
「いえ、そういうわけにはいきません。ブラスカ様にはゆっくりと休んでいただかねば」
ジェクトと同室では気も休まらないでしょう、とぼやきながら、彼は宿帳に三人分の名前を書き込んでいく。
ブラスカ、アーロン、ジェクト。今しがたの二人の会話と、宿帳に書かれた名前を見てリンは、この一行が先日『シン』討伐の旅を始めた召喚士一行だということを知った。ブラスカのことは、アルベド族の内々での噂――ただし、あまりいい内容のものではない――では聞き及んでいたものの、実際に対面で話をするのは初めてだった。
「召喚士様をお泊めできるとは、光栄です」
リンの言葉に、ブラスカが柔和な笑みを浮かべた。
「今後も旅行公司には何かと世話になると思う。どうか、よろしく頼むよ」
「もちろん、当旅行公司を挙げてできる限りのご支援をさせていただきます」
「ありがとう……アーロンと、そこにいるジェクトの二人はガードをしてくれているんだ。彼らともどもよろしく」
小さく会釈をするアーロンに、リンも会釈を返す。それから、視線は自然とジェクトの方へと向いた。
大男は腕を組みながら、除雪用の道具と一緒に壁に掛けられている武器や、棚に陳列された商品を物色していた。そこへ、リンの後輩の店員がにこやかに声をかけている。
「なにかおさがし、ですか?」
彼女はアルベド以外の客の応対ができるよう、スピラの共用語を勉強している最中だった。言葉にまだたどたどしさがある。
「んー、ちょいとみやげをな」
「おみやげ、ですか」
わずかに首を傾げる店員に、ジェクトは視線を商品棚に向けたまま頷いた。
「おう。ザナルカンドにゃなさそうなモンが欲しくてよ」
明るい声で、あまりにも気軽に口に出された地名に、後輩の笑みを浮かべた口元がわずかにこわばった。
エボンの聖地とされている廃墟の名は、軽々しく口にするものではないというのがスピラの常識だ。エボン教徒でなくとも、面倒事は避けるに越したことは無いので、好き好んで話題に出す者もいなかった。
リンは思わずブラスカの方を見る。その際、アーロンが額に手を当てて首を横に振っているのが視界の端に入った。リンの視線を受けたブラスカは、静かに苦笑して声を落とした。
「……『シン』オゴルテガ」
『シン』の毒気だ。
毒気にやられた者の言うことだ、だから多少のことは大目に見てほしい。
アルベド語の短い言葉は、そのような意向を端的に伝える。それを汲んで、リンは小さく頷いた。
カウンターから出て、商品棚の方へと歩み寄る。言葉もなく固まってしまっている後輩に代わって、なおも商品を熱心に物色しているジェクトに声をかけた。
「どなたへのお土産なんですか?」
「うちのガキだよ。……ああ、アレなんかカッケェけど、アイツにゃ持てねえだろな」
そう言ってジェクトは壁に掛けてある大剣を指差した。
確かに、あれは子どもが扱うには重量がありすぎるかもしれない。少し考えてから、リンは一度カウンターの奥へ戻り、武器の在庫を立て掛けている棚から細身の剣を出してきた。
「でしたら、これなどいかがでしょうか」
カウンターの上に置いた剣を、ジェクトが腕を組んで身を乗り出しながら眺めはじめた。
「実戦向きではないのですが、軽くて持ちやすいので、剣技の練習に使われることがあります」
「へえ」
「あとは、そうですね……」
リンは、今度は別の商品棚から新品のスフィアを一つ手に取り、ジェクトの前に差し出すようにして見せた。
「旅の思い出、というのもいいお土産になるのではないでしょうか。こちら、寺院に巡礼に来られた方もよくお求めになっていますよ」
「スフィアはもう持ってるぜ。ベベルで買った」
ほれ、と透き通る青の球体を差し出されて、リンは微笑んだ。
「予備はお持ちですか? スフィアは非常に割れやすいものですから、いくつか持っておくと安心ですよ」
その需要に対して、記録用スフィアを取り扱っている店というのは意外と少ない。そのため、不測の事態に備えて買える時にまとめて買っておくと安心だ。そのように薦めてみると、ジェクトは少し考え込んだ後、頷いて満面の笑みを見せた。
「決めた! んじゃ、この剣と、スフィアも三つ頼むわ」
それからブラスカの方を向いて、
「支払いよろしく」
にやりと口の端を上げる。すかさずアーロンが口をはさんだ。
「ふざけるな、貴重な旅費を……!」
「まあ、いいんじゃないか。これくらいは」
そう再びなだめられても、青年はかえって苛立ちを強めたようすで、やり場のない怒りをどうにか鎮めようとするかのように深くため息をついた。
「ブラスカ様、甘すぎます」
「うらやましいなら、てめえもブラスカサマに何か買ってもらえばいいじゃん」
「そういう問題じゃ……いや、そもそもそんなことは言っていない!」
ブラスカは、また始まった、と言わんばかりの表情をしている。
良い歳をした大人たちが子どものようなやりとりをしているのがおかしく、リンは思わず吹き出しそうになった。あわてて咳払いで取り繕って、今しがた購入された商品を包むよう後輩の店員に指示した。
翌朝も一行は――厳密には、二人のガードは騒がしかった。朝から何があったのか、公司の建物を出る直前から口論が始まっていた。
冴えた空気の中を言い合いながら歩くガード二人の後ろを、召喚士がのんびりと追っていく。その背中を見送りながら、リンは自分が無意識に頬を緩めていることに気づいた。
昨日一晩中降り続いた雪はもう止んでいて、今は雲の隙間からかすかに青空がのぞいている。このすがすがしい気分のまま、雪かきを済ませてしまおう。そう考えて、道具を取りに行くために旅行公司の正面から裏手へと回る。
その途中で、ちょうど寺院の方へと向かうらしいエボン僧たちとすれちがった。彼らはわずかに眉をひそめながら、旅行公司の前をそそくさと通り過ぎていく。
スピラ各地に点在し大きな利益を上げる旅行公司は、アルベド族の貴重な収入源だ。したがって、今の僧たちのように、この事業を快く思わないエボン教徒は多い。本来なら寺院に目を付けられて営業停止を命じられてもおかしくなかった。
それでも今日までお咎めがないのは、結局は寺院側としてもその存在が必要だからなのだろうとリンは考える。寺院とは切っても切れない関係にある召喚士は、表向きはアルベド族の提供する機械や施設に頼ってはならないとされているらしいが、過酷な旅路である。なかなかそうはいかないのだろう。
だから、きっとブラスカ一行ともまた顔を合わせることになるかもしれないとリンは予想していたが、その機会は存外早く訪れることになった。
◆
約ひと月後、ブリッツシーズン真っただ中のルカは熱気に包まれていた。南洋の島ほどではないとはいえ、ルカも、季節を問わない温暖な気候が特徴的だ。照りつける太陽の下に立っているだけですぐに汗がにじんでくる。
加えて、この人出だ。スピラ各地からの観光客でごった返す広場にリンは屋台を構えて立っていた。残り少なくなってきた水筒の中身をあおって、額から落ちる汗を拭う。
そこでふと、一人の男が屋台の前で足を止めた。リンがそれに気づいて顔を上げるより、彼が「あれ?」と声を上げる方が早かった。
「おい、兄ちゃん」
聞き覚えのある声に見上げると、例の召喚士一行のガードの一人が不思議そうにこちらを見ていた。
「ジェクトさん、ですよね。こんにちは」
「おう。こないだはマカラーニャにいたよな? なにしてんだよ、こんなとこで」
「当旅行公司はアルベド・サイクスを後援しておりまして」
そこまで言ったところで、ジェクトの表情は納得したような、同情するようなものに変わった。
「ははあ、グッズ売りに駆り出されてるわけね」
ジェクトが見回す屋台の中には、チームのエンブレムが入った多種多様なグッズがつるされている。タオルやキャップなどおなじみのものもあれば、選手が着用しているのと同ブランドのゴーグルなど、サイクスならではともいえるグッズもある。ゴーグルは、意外にもアルベド族以外のファンにも売れ行きがいい。
「サイクスか……これから試合観に行くぜ。サイクス対ゴワーズ」
「でしたらぜひ、おひとついかがでしょうか」
言いながら、グッズの群を手で示したが、苦笑いして断られた。
「おや、本当に大丈夫ですか? こちらなどは最後の一つなのですが……」
屋台の仮設のテーブルの上、アクセサリー類のかかっているスタンドからキーチェーンを取り、手のひらに乗せてよく見えるようにした。
このキーチェーンは、例年この時期に限定して売っているものだった。サイクスのエンブレムとその年のスピラ暦年が刻印された銀色の小さなプレート、そしてブリッツボールをかたどったチャームが、短く細い金具でひとつなぎになっている。
ブリッツボールのチャームには、サヌビア砂漠で採られた鮮やかな青色の鉱物を部分的にあしらっている。毎年人気が高いものだが、生産に時間がかかることから、ひとたび売り切れるとその年内は再販しないことになっている。
「スピラ中が最もにぎやかなこの時期にルカに来た……そんないい記念になりますよ。お土産にぴったりです」
リンの説明を聞いて、リンの手のひらで輝くキーチェーンを見て、ジェクトは腕を組んでうなっている。
しかしやがて、「上手いな、兄ちゃん」とどこか悔しそうに言いながら、ポケットから硬貨を出してトレーに乗せた。
「ここにいたのか、ジェクト」
そこへ、アーロンが人をかき分けながらやってきた。リンを見て少し意外そうな顔をしつつ軽く頭を下げた後、トレーの上のギル硬貨を見て眉を寄せた。
「あんた、また無駄遣いしてるのか?」
「無駄じゃねえよ、これもブリッツの研究のうち」
「これが何の研究になるんだ」
「おめえみてえなシロートにゃサッパリだろうけど、俺様ほどになるといろいろわかんだよ。いろいろ」
「適当なことを……」
アーロンは呆れかえっているようだったが、先日マカラーニャで感じたとげとげしさはないようにリンには感じられた。
「なんでもいいが早くしろ、ブラスカ様が待ってる」
言い終えないうちに、アーロンは背を向けてもと来た道の方へと戻っていく。ジェクトは短く応えながら、リンからつり銭と小さな紙袋で包装されたキーチェーンを受け取った。
「あんがとよ」
「こちらこそ。また旅行公司の方もごひいきに」
「おー。じゃ、またそのうちな」
そうリンに笑いかけ、ジェクトはアーロンの後ろ姿を追いかけていった。
◆
またそのうちに。そのジェクトの言葉は再び現実のものとなった。
「二部屋で頼む。もう一人……ジェクトは後から来る」
慣れた手つきで宿帳に記入するアーロンは、少し疲れたような声をしていた。
リンがルカで売り子をしていた時から二ヶ月ほどが経っていたこの日、ブラスカ一行が再びマカラーニャ湖の旅行公司を訪れた。ブラスカとアーロンの二人だけがまず入店し、ジェクトは遅れて来るという。
会話らしい会話もないまま宿泊手続きと支払いが終わると、ブラスカとアーロンは早々に用意された部屋へと下がっていった。
こうして再びこの地を訪れているということは、おそらく一行は回るべき寺院を回り終えて、これからガガゼト山を越えるのだろう。『シン』との戦いが着実に近づいているということだ。そのためなのかもしれないが、二人がまとう雰囲気が重いことがリンの気にかかった。
そう考えていたところで、ジェクトが正面入口の扉を押して入ってきた。カウンターにリンの姿を認めて、歯を見せて笑う。
「よう、また世話んなるぜ」
マカラーニャの厳しい冷え込みの中を、ジェクトは相変わらずの格好で歩いてきたようだ。
「どうも。この間ルカでお会いしましたね」
「ああ、ずいぶん昔のことみたいだけど、ほんの一、二ヶ月くらい前なんだよな……やっぱりここはさみいなあ」
ジェクトはやはりまずは暖炉に直行した。弱すぎず、激しすぎない程度に調節された火にあたりながら、ところで、と口を開いた。
「結局兄ちゃんは、ここの店長かなんかなの?」
「まだ店長ではありませんが、当面はマカラーニャにいることになるかと思います」
リンの言葉を受けて、ジェクトは喉の奥で笑い「『まだ』ねえ……」とつぶやいた。
しばらく他支店への視察や応援などでスピラ中を飛び回っていたリンだったが、先日の異動でマカラーニャ湖支店に正式配属された。今後は基本的にはこの支店にとどまり、次期の旅行公司オーナー候補としての経験を積んでいくことになる。他支店に応援に行くことがあるとしても、ここから最も近い雷平原の支店か、ナギ平原の支店に限られるだろうという話だった。
「それはそうと、スフィアは足りていますか? よろしければまたいくつか買い足されてはいかがですか」
さっそく在庫の入った箱を出そうとしたが、ジェクトが眉をわずかに寄せたのを見て、手を止めた。
「ああ、あれな……」
歯切れの悪い言葉の続きをリンは待った。やがてジェクトは、小さくため息をついた後に切り出す。
「あれ、渡せそうにないんだわ」
「え?」
「スフィアだけじゃなくて、なんかいろいろ買ったろ? ここでも、ルカでもさ」
言いながらジェクトがポケットから取り出したのは、ルカで購入されたあのキーチェーンだった。それを目の高さに掲げて、独り言を言うような調子でジェクトは続けた。
「でも、たぶん、うちのガキには渡せねェと思う」
それが意味するところは、リンにはわかりかねる。
「……それは――」
しかし結局、その言葉の真意を聞くことはできなかった。リンの言葉を遮るように、ジェクトは少しだけ眉を下げてリンに笑いかけた。
「せっかく選んでもらったのに、わりいな」
ジェクトに関しては屈託のない笑顔が印象に残っていたが、この時の表情にはめずらしくぎこちなさがあるように感じられた。
その晩、夕食の席でも、三人の表情はどこか硬かった。ブラスカが食傷気味と言わんばかりの顔を見せていたほどの、ガードどうしの言い合いも、リンが見た範囲ではついぞ行われることはなかった。
翌日、マカラーニャ湖の上空には朝から重い雲が垂れ込めていた。分厚い雲いっぱいにためこまれた氷の粒が、いつあふれて雪になって降ってきてもおかしくない。
「……どうか、お気をつけて」
送り出しの言葉に迷ったリンは、結局無難な表現を選んだ。それでも、ブラスカとジェクトは笑顔で手を振って応じた。しかしアーロンだけは、考え込むように表情を曇らせたままだった。
寒空の下、一行は、前回マカラーニャを訪れた時とは逆方向に歩いていく。リンは、その背中が遠く見えなくなるまで見つめていた。三人分の雪を踏みしめる足音がなぜか、やけに耳に残っていた。
そのことを不思議に思っていたその時、唐突に、リンの脳裏に一つの考えがよぎった。もしかしたら、もうあの三人に会うことはないのかもしれないという予感だった。
(……不吉な)
目を閉じて、振り払おうとした。しかしそうすると、つい先ほど見た三人の背中がまぶたの裏に浮かんで、かえってその予感に現実味を与えていくようだった。
そして実際、三人そろった姿をリンが見たのはこの日が最後となった。