6. 右手と左手程度の違い

幼少期の双子のお話。健全ほのぼの ※過去捏造もりだくさん、そしてモブフィガロ兵がだいぶ出張っております。ご注意ください

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 エドガーが剣術を習い始めたのは七つのころだった。以来三年の間は同じ講師に教わっていた。しかし彼は高齢だったので、先日、惜しまれつつもその役目から退くことになった。

 後を引き継いだのは、高名な貴族の出で、国内でも指折りの剣の才能を持つといわれる男だ。そしてエドガーはその男ととにかくそりが合わなかった。

 特別厳しいわけではないがほめることもない。エドガーが習ったことを忘れていたりすると、叱りこそしないが、腹が立つほど丁寧な口調でくどくど嫌味を言ってくる。

 いつか完璧な剣術を披露して、あいつの鼻を明かしてやりたい――そんな野望を抱くエドガーには「協力者」がいた。

 

 王家の子弟は十にもなれば、遊んでばかりはいられない。今日も算数や歴史学やらの授業を詰め込んだ一日が終わった。もう夕暮れどきだった。

 エドガーは城の正門を出て、建物の裏手の方に回り込んだ。離れに建つ塔へとまっすぐ駆ける。傾く日が砂原を茜色に染めていた。

「エドガーさま」

 目的地である建物の入口前で、城の兵士が一人、軽く片手を挙げている。この場所が、この兵士――「協力者」との待ち合わせ場所だった。

 今やすっかり顔なじみの兵士の正確な年齢を、エドガーは知らない。しかし見た目や立ち居振る舞い、そして装備からわかる兵士としての等級から、エドガーよりだいたい十前後くらい上の年ごろだと思われた。

「行きましょうか」

 青年は、かんぬきにぶら下がっている南京錠を外して扉を押した。さびた金属のきしむ音を立てて重そうな扉が開く。そのすき間にエドガーは体を滑り込ませた。

 中に入ると、エドガーは慣れた動作で、城内の備品庫からくすねてきたろうそくに火を点け、壁に備え付けの燭台に刺した。ちらつく炎がほこりまみれの部屋を照らしていく。

 この建物は昔、城の兵士の訓練場として使われていたらしい。しかし今は、隅の方に不用品などのがらくたが積み上がっており物置同然だ。

 管理もろくにされていない、薄汚れた離れに好き好んで近づく者はそうそういない。訪れるのは、遊び場を求める子どもか、職務の合間に上長から隠れてひと休みできる場所を求める兵士くらいだ。

 ひと月ほど前、この場所で、この青年兵士が見張りの仕事から逃れて「小休止」をとっていたところに偶然出くわしたのは、エドガーにとっては幸運だった。

 このことを兵士長に黙っておく見返りに、剣術の稽古につきあってほしい――交渉の末取引は成立した。かくして、エドガーと青年兵の秘密の特訓が行われるようになったのだった。

「じゃあ、今日もよろしく」

 エドガーはさっそく、持参した訓練用の剣を構えた。

 

 授業で習った技や動作を確認して、何回か打ち合いをする。とにかく、体に慣れさせる。それを繰り返していけば、頭で考えるという段階を挟まなくても、自然と体が動くようになっていく。

 感覚をつかめたという自信が出てきたところで、エドガーは構えを解き、剣を持つ手を下ろした。

「うん、今日はもうこれくらいでいいかな」

 相手をしていた兵士はうなずき、自身もまた、練習用の木製の剣を下ろした。

「わかりました。じゃあ、火の始末をして戻りましょうか」

 彼は、そこではた、と思い出したように顔を上げてエドガーを見た。

「そうだ……エドガーさまにひとつ、聞きたかったことが」

「なんだ」

「その、エドガーさまとマッシュさまの見分け方を教えてほしいのですが」

「見分け方……?」

 エドガーは眉間にしわを寄せる。面と向かってこう尋ねられたのは初めてで、ぱっと答えが浮かばない。

「実は、このあいだおふたりを間違えたんです。マッシュさまにこんな気軽な調子で話しかけちまいましてね、もう大変でしたよ」

「マッシュはそんなことで怒らないよ。むしろ、気軽に話しかけたほうがよろこぶと思うけど」

 エドガーにとっては、変に堅苦しくなられるよりはそのほうがずっとやりやすい。マッシュも同じように思っていると、このあいだ本人が言っていた。

 今にしても、できればくだけた話し方にしてほしいとこの青年に頼んだのはエドガーだ。いつだったか城下町に出た時に聴いた、自分より少し年上の少年たちがお互い交わしていた言葉。ああいった気軽な会話に憧れていた。

「確かに本人は怒っていませんでしたが……周りはそうはいかないんですよ」

 聞けば、不敬だということで兵士長にこっぴどく叱られたらしい。あれでおれの出世もなくなったかな、と青年は乾いた笑いを漏らした。

 そんな彼に対して、エドガーは、なんとなく悪いような気がしてきた。そして埋め合わせになるかもわからないが、彼の要望に応えることにした。

「見分け方ねえ……ああそうだ、髪かざりはね、いつもそれぞれ自分のをつけているんだ」

 エドガーは青年に背を向けて、自分の後ろ髪を留めている飾りを指し示す。青年は、なるほどと相づちをうったが、少ししてからぼそりと呟いた。

「でも、その髪飾り、この間マッシュさまがつけていたような」

「あれっ」

 言われてみれば、確かに、マッシュの髪飾りと自分のそれを取り違えてしまったことがあった気がする。その日はやけにマッシュと間違えられたのだ。

 またそんなことがあっては見分ける方法としては機能しない。エドガーは腕を組んで考え込む。

「あ、じゃあこれはどうだろう」

 今度は、左手の甲を相手に見せながら、親指の付け根あたりを右手で指さした。

「ぼくの左手の、ここ。ほくろがあるだろ? じつはこれはマッシュの左手にはない」

「ふむ」

「マッシュはね、逆なんだ。右手のここにほくろがあるんだ」

 これならわかりやすいだろう。自信に満ち、胸を張りながら隣の男の表情をうかがった。

 しかしエドガーの期待に反して、青年は複雑な顔をしていた。こころなしか言いづらそうにしながら、口を開く。

「あのう、マッシュさまもほくろはあるんですよね? エドガーさまとは逆の手だけど、同じようなところに」

「そうだけど」

 兵士は額に手を当てて、ううん、と軽くうなった。

「もっと他の目印みたいなものはないですかね……」

「なんでだよ、右手と左手とじゃ全然ちがうから、わかりやすいだろ?」

 そう主張するが、青年は浮かない顔のままだ。

「ええと、エドガーさまが右手でマッシュさまが左手でしたっけ?」

「逆だ!」

 地団駄を踏まんばかりのエドガーの声が、雑然とした旧訓練場に響きわたった。

 

   ◆

 

「……そんなにむずかしいことなのかな?」

 それが、今日起こった一連のできごとをエドガーから聞いたマッシュの第一声だった。エドガーは全面的に同意する。

 寝る前の自由時間、マッシュはよく机に向かって書き物をしている。今夜もそうしていたところ、先ほどからエドガーの話につきあわされていたのだった。

 マッシュは机上のノートを閉じ、椅子から立ち上がった。ベッドにうつぶせに転がりほおづえをついているエドガーの元に歩みよってくる。

 そのままマットレスのふちに浅く腰掛けたマッシュは、エドガーに向かって右手の甲を差し出した。親指の付け根にぽつりとほくろがある。

「こうして見れば、全然ちがうのにね」

 そう言うマッシュの手と自分の左手を見比べ、エドガーはため息をついた。そのとおりだった。なのに、なぜ彼らはわからないのだろう。それがエドガーにはわからない。

「大人にもわからないことがあるんだねえ」

 のんびりとマッシュは言う。エドガーは弟のようにおおらかにはなれなかった。むくれながら呟く。

「大人だから、わからないのさ」

 言いながら、横目でマッシュの表情をうかがってみると、弟はなにやら微笑んでいた。

「なんだよ」

 なにを笑っているのか、と唇をとがらせると、マッシュの笑みが深まった。

「兄ちゃん、最近それお気に入りなの? なんども聞いたよ」

「そうだった? じゃあそれだけ大人たちがわからずやってことだな」

 あーあ、とあくびをして、エドガーは仰向けに寝転がった。

 そのまま何を見るともなしに古ぼけたベッドの天蓋を見上げていたが、全体重をマットレスに預けていたら、思ったよりも早く眠気が襲ってきた。やがてあらがえなくなってまぶたを閉じる。

「……わかってもらうのって、むずかしいよなあ」

 また言ってる、とくすくす笑うマッシュの声が、遠ざかっていく意識の中で小さく聞こえた。